「マリア・モンテッソーリ」リタ・クレイマー著。読書メモ

単なる読書メモです
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kingstone @king1234stone

1894年6月、大学に入学しての4年目、内科・外科学部に入学して2年目の終わりにロリ賞とそれに伴う奨学金を授けられた。しかしまだ戸外を女性1人で歩くことはよくないと思っていた。(当時は女性が戸外を1人で歩くことはよくない、とされていた。日本だと明治は?江戸時代はダメだろうな)

2013-04-25 06:49:05
kingstone @king1234stone

?解剖学(というか解剖)にがっくり来て、外に出た時にピンチ公園で子どもを抱いた女性の乞食に会い、その子が小さな色紙の細長い切れ端で遊んでいるのを見ているうちに「自分自身説明できない感情に動かされて、向きを変えると、解剖室に戻りました」これ、医学部に入るのを決心したエピと同じ?

2013-04-25 07:00:19
kingstone @king1234stone

ああ、著者も書いてる。最初のはマッケローニが聞き、次のはスタンディングが聞き。ってことは同じ話を本人がし、相手が「どういう状況の話だったか」を聞き違えたんじゃないか?あるいは本人が状況を言い間違えた可能性もあるか。

2013-04-25 07:02:41
kingstone @king1234stone

ロリ基金の奨学金は当時1000リラ。どのくらいなんだろう?

2013-04-25 07:07:39
kingstone @king1234stone

1895年、病院助手。(成績がよくないとなれない。ひょっとして1番?)卒業の1年前から臨床経験が積める。そして卒業後はその病院に招かれることになっていた。1896年、卒業後は大学附属の聖ジョバンニ病院の助手として採用された。また個人開業もし繁盛した。

2013-04-25 07:15:27
kingstone @king1234stone

あれ?Wikipediaでは女性だからいろんなところで雇ってもらえなかった、とあったがそうじゃなかったんだ。

2013-04-25 07:16:35
kingstone @king1234stone

モンテッソーリの幼年時代の小学校について。校長(男・女?)は年に120ドル相当しかもらえなかった。(しかしこのレートはいつの時代のか??リタが書いている時代か、1870年代か)女性教師は男性教師よりさらに給料が低かった。

2013-04-25 07:23:49
kingstone @king1234stone

1896年卒業。論文の題は訳せば「被害妄想の研究に関する臨床的寄与」

2013-04-25 10:42:15
kingstone @king1234stone

当時はクリスピ内閣が倒れた年。知識人の間ではアフリカ征服、植民化政策への反対が話題に。1960年代アメリカのベトナム戦争への雰囲気に似てる。「アフリカ撤退」が標語に。

2013-04-25 10:44:23
kingstone @king1234stone

ツリンのローソク工場に勤める男性熟練労働者は日給65セント、女性は20セント、製粉工場の男性は28セント、女性は12セント。ローマの人口50万。人が増え、城壁の外に新しく建物を建て始めていた。明治28年か。あっ、日清戦争が1894年、2年前だ。

2013-04-25 10:48:30
kingstone @king1234stone

1896年8月、卒業1か月後にベルリンで開かれる国際婦人会議のイタリア代表使節団の一員に選ばれた。卒業後、苦難の道を歩んだのか、と思っていたけど、そうでもないみたいね。もちろん苦労はあったろうけど、すごく周囲から認められている。

2013-04-25 10:52:59
kingstone @king1234stone

でもって会議の初日に社会主義グループの女性たちがデモをかけてきたのに対しモンテッソーリが演説したと。そしたら拍手が巻き起こってデモは解散したと。へえ。

2013-04-25 10:57:46
kingstone @king1234stone

なお、演説は熱狂をもって迎えられ、演説の時は紙を持っていたのだけど、後で記者が「見せて」と頼んだら白紙だったと。勧進帳というかタモリというか。

2013-04-25 11:00:34
kingstone @king1234stone

内科・外科・精神科といろいろ仕事をし、かつ「彼女は医師と看護師の区別がついていない」といわれるようになんでもやってたみたい。もともと子どもの頃、タイル磨きとか好きだったし、それがのちの「日常生活の訓練」にもつながっているであろうと。

2013-04-25 11:07:30
kingstone @king1234stone

セガンの「活動の教育」というので使われた教材は「自立課題学習」でどうやればいいかは考えやすいな。「太さの違う釘を穴に入れる」「幾何学図形を同じ形の穴に入れる」「ビーズ玉糸通し」「布きれにボタンをはめる」

2013-04-25 11:38:44
kingstone @king1234stone

1897-1898にモンテッソーリは教育学のコースも聴講。スイスのペスタロッチ、イギリスのロバート・オーウェン、ドイツのフレーベルなどの影響と、イタールやセガンの影響が入る。

2013-04-25 11:43:52
kingstone @king1234stone

なお、ペレーラを通じてルソーも入ってるかも・・・とのことだが、ルソーって・・・

2013-04-25 11:44:23
kingstone @king1234stone

ジャコブ・ロドリゲス・ペレーラは18世紀中頃、医学を収め、聾唖者教育に興味を持ち、何人かの成功のあと、1750年、ボルドーに自由学校を創る。ルソーは家が近く頻繁に訪れていた。

2013-04-25 14:35:16
kingstone @king1234stone

でそれが「エミール」とか書くヒントになったんだろうな。しかし、基本的には実践家じゃなく評論家というか思想家だよね。確か「自然に還れ」だっけ。まあでもそれにペスタロッチとかは感銘を受けたと。

2013-04-25 14:36:46
kingstone @king1234stone

ペスタロッチ。1746-1827。スイス。ルソーに感銘を受け「自然生活」に入る。しかしもうたいへん・・・ということであったらしい。感傷的な小説を書き、おおいに評判をとるが援助はなし。

2013-04-25 14:41:49
kingstone @king1234stone

しかしナポレオンが1798年にスイスに進行すると、フランス軍の働きかけでスイス政府も孤児のための学校を設立することに着手した。そしてペスタロッチがその役に任ぜられた。

2013-04-25 14:42:35
kingstone @king1234stone

フレーベル。 1782-1852。ペスタロッチの弟子のもとで働き、もっとうまくできるのじゃないか、と仲間と1816年にチューリンゲンに学校を創った。「全ドイツ教育研究所」というたいそうな名前だけど生徒5人から。しかしスイス政府のために、小学校教員を教える教師をしたりする。

2013-04-25 14:47:39
kingstone @king1234stone

1837年にチューリンゲンで幼児のための学校を創る。最初の名前が「小さな子どもたちが占領している学校」のちに「キンダー・ガルテン(幼稚園)」プロシア政府により、あまりに急進的と閉鎖された(!!)

2013-04-25 14:51:46
kingstone @king1234stone

しかし各地で試みられ1851年にはロンドンで。アメリカでは1855年。公教育制度に取り入れられたのが1873年。デューイもとりあげシカゴ大学の実験校で実行に移された。

2013-04-25 14:53:08
kingstone @king1234stone

フレーベルは、遊びを通して学習を刺激するために「恩物」と呼ぶおもちゃや遊具を導入。

2013-04-25 14:54:41
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