#鳳翔の艦娘講座 ~番外編『ブルーインパルス ~烏からサーカスを経て蒼いイルカへ~』~

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鳳翔 @Housyou_kankore

ブルーインパルス動画でも見ながら頂いてみましょうか。 http://t.co/4KsKSljqTS

2013-10-05 13:19:43
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鳳翔 @Housyou_kankore

ブルーインパルスはやはり華がありますよね。 日本における航空機の曲芸飛行は、「源田サーカス」と呼ばれた海軍航空隊の曲芸飛行チームや、それ以前の「三羽烏」と呼ばれたチームに歴史を見ることが出来ます。

2013-10-05 13:54:27
鳳翔 @Housyou_kankore

それでは、行ってみましょうか。 本日の #鳳翔の艦娘講座 番外編は『ブルーインパルス ~烏からサーカスを経て蒼いイルカへ~』です。

2013-10-05 13:55:14
鳳翔 @Housyou_kankore

1916年に部隊設置をされました横須賀海軍航空隊は、教育と飛行錬成を主任務としていました。 これが各地に飛行隊が設置をされる頃になりますと、戦技研究や航空機の実用試験を主任務として行う様になっていきます。

2013-10-05 13:57:20
鳳翔 @Housyou_kankore

海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機や爆撃機を「報国号」と称して居ます。これは、艦これの図鑑で96式艦戦のイラストにも「報國12」の文字が描かれている所からも窺い知れると思います。

2013-10-05 14:00:01
鳳翔 @Housyou_kankore

1932年頃から、こう云った報国号が献納された時の式典において、民衆の前で曲芸飛行を行う様になりました。 これが、日本におけるアクロバット飛行の始まりと云われています。 当時は「編隊特殊飛行」と称して居ました。

2013-10-05 14:01:24
鳳翔 @Housyou_kankore

これを考え出したのは、当時海軍の戦闘機分隊長小林淑人大尉で、小林大尉が率いる編隊特殊飛行チームは3機編隊でしたのでそれを称して「三羽烏」「空中サーカス」と呼ばれていました。 一方、満州事変を境として満州を制圧した関東軍に当時の日本は高揚し、報国号の献納数も増えていきます。

2013-10-05 14:03:42
鳳翔 @Housyou_kankore

1933年、源田実氏が戦闘機分隊に配属をされ、編隊特殊飛行チームを受け継ぐと、曲芸飛行の機会も増加をしていき、使用する機数も9機に増えて行きます。 これらの編隊特殊飛行は、もっぱら90式艦戦を使用して行われました。

2013-10-05 14:07:35
鳳翔 @Housyou_kankore

少し横道にそれますが、この90式艦戦は採用から旧式化までが割と早かったためか、生産数およそ100機程度で世代交代をしていきます。 しかしながら、編隊特殊飛行に用いられた事もあり広く親しまれる機体となります。 また、それが為に空戦技術の発展に寄与した機体でもありますね。

2013-10-05 14:09:23
鳳翔 @Housyou_kankore

さて、その源田実氏率いる編隊特殊飛行は、なかなか高度な曲芸飛行もあった様ですが、その技術はかなり質の高い物でした。 こうして、この編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称で親しまれて定着をしますが、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行われなくなっていきました。

2013-10-05 14:10:58
鳳翔 @Housyou_kankore

国内での曲芸飛行の歴史は一旦ここで途切れることになりますが、実は戦時中にこんな事があったと伝えられています。 太平洋戦争中期、ポートモレスビー攻略の前線基地として、日本はラエ基地に進出をします。

2013-10-05 14:15:22
鳳翔 @Housyou_kankore

この際進出してきた第4航空隊・台南航空隊の中には、エースパイロットとして名を馳せた坂井三郎氏、西澤氏、大田俊夫氏が居ました。 ある日のポートモレスビー攻撃の後、上記の3人が、かねてから計画をしていたある事を実行に移します。

2013-10-05 14:18:58
鳳翔 @Housyou_kankore

それは、敵基地であるポートモレスビー基地上空で、編隊宙返りを行う、と言う物でした。 戦闘終了後、坂井氏がポートモレスビー上空で待機していますと、約束通り西澤氏、太田氏がやって来ます。 そして、坂井氏の合図の元、編隊3回宙返りを行いました。

2013-10-05 14:21:25
鳳翔 @Housyou_kankore

この時の編隊は一糸乱れぬ綺麗な編隊を組んでいたそうです。 これを2回やったそうですが、その間米軍側からは対空砲火も迎撃戦闘機も来なかったそうです。 あまりの大胆な行動にあっけにとられたのでしょうかしらね。

2013-10-05 14:23:02
鳳翔 @Housyou_kankore

実際こう云った行為は軍規違反になるそうでして、後日このいたずらがばれた3名は所属の中隊長からお目玉を食らったそうです。基地司令はにやりと笑って済ませていたそうですが。

2013-10-05 14:24:58
鳳翔 @Housyou_kankore

数日後、米軍機が1機ラエ基地にやってきて、次の様な手紙を投下していったそうです。 「先日の宙返りは非常に気に入った。今度来る時はグリーンのマフラーをして来られたい。大歓迎する」 今も当時の米軍も、こう云ったユーモアのセンスを持ち合わせていたみたいですね。

2013-10-05 14:26:13
鳳翔 @Housyou_kankore

さて、そんなこんなで話は戦後まで進みます。 戦後日本では飛行機の製造・研究は一切禁止をされていましたが、サンフランシスコ講和条約に於いてそれは解除をされ、また同じ1952年に保安隊の設立を持って、正式に航空自衛隊の前身組織が成立をします。

2013-10-05 14:27:55
鳳翔 @Housyou_kankore

1955年、アメリカからの武器供与協定を受けて、パイロットの一部は教官としての技術を習得するためアメリカに赴きます。 その際のパイロットの一人が、たまたま基地で見たアクロバット飛行に深く感銘を受けることになります。

2013-10-05 14:29:57
鳳翔 @Housyou_kankore

このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任をしますが、この時に主任教官として米軍から赴任していたジョー・ライリー大尉の助言を受け、同僚と共に訓練飛行の合間を縫ってアクロバット飛行の訓練を行う様になりました。

2013-10-05 14:31:22
鳳翔 @Housyou_kankore

この訓練は極秘に行っていたのですが、やがて飛行隊長の知るところとなります。 飛行隊長は訓練の主旨に大いに共感をして、すぐに上層部に掛け合い、なんと正式に訓練できる環境を整えるに至ってしまいました。

2013-10-05 14:33:41
鳳翔 @Housyou_kankore

更に、1958年秋の浜松基地開庁式典のアトラクションとしてアクロバット飛行の公開が認められました。 この後3人目のパイロットが訓練に加わり、3機編隊での訓練が行われる事になります。 こうして1958年10月19日、航空自衛隊として初めてのアクロバット飛行が公開されました。

2013-10-05 14:35:26
鳳翔 @Housyou_kankore

この当時の使用機体はF-86Fセイバー。 第1飛行隊のコールサインが「チェッカー」で、編隊コールサインはこれに編隊名として色をつけていましたので、「チェッカー・ブルー」と云うコールサインが用いられます。 「ブルーインパルス」の青はここが由来ですね。

2013-10-05 14:37:00
鳳翔 @Housyou_kankore

当時はまだスモーク(煙)の表現も、また特別な機体塗装もなかったのですが、そもそもこの時代はジェット機での曲芸飛行が映画の中ですら珍しい時代。 そこにおいて、実機を使ったアクロバット飛行を行った事は、航空自衛隊関係者や観客にかなりの衝撃とインパクトを与えたと云われて居ます。

2013-10-05 14:39:19
鳳翔 @Housyou_kankore

この後4番機が加わり、1959年3月15日に行われた日本平和防衛博覧会の開会式、1959年3月20日の防大卒業式、1959年4月26日の名古屋空港祭でも展示飛行が行われました。

2013-10-05 14:41:00
鳳翔 @Housyou_kankore

ここでこのチームは一旦解散となりますが、アクロバット飛行の訓練そのものは継続をされます。 また、1959年8月にアクロバット飛行のチームリーダーが交代をします 。

2013-10-05 14:42:47