顕頼&通憲&頼長まとめ

藤原通憲(信西)と藤原顕頼・頼長関連歴史研究ツイまとめ
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泉裕樹 @izumi_1118

顕頼の母に源頼綱女説がっ! その他史料・状況からしてそれは無いと思う。でもちゃんと否定できる研究しとかないと、自分の信西研究に影響してしまう><

2014-03-10 23:08:29
泉裕樹 @izumi_1118

顕頼、女の子しか生まれなくて(信頼母)、31歳で顕広(俊成)を養子にした後、光頼・惟方ら男子が生まれたのか~ 俊成の改名は顕頼没後だから、最後まで子供として扱ってたのかなぁ~ 俊成養子にしたのと、光頼らの母は兄弟で、どっちが関係としては先なんだろう。

2014-03-12 00:14:48
泉裕樹 @izumi_1118

先日気になった「弁官補任」で顕頼の母を「前美濃守源頼綱朝臣女」とすることの否定を。源頼綱の最終官は三河守ですから(「中右記」)、そこがまず間違いですね。 #顕頼

2014-03-17 22:46:31
泉裕樹 @izumi_1118

何故「弁官補任」が間違えたのかということですが、分からないなりに推測すると、顕頼の記述の前に、為隆の母として「美濃守源頼国女」とあり、類似が気になる感じでしょうか。 #顕頼

2014-03-17 22:48:29
泉裕樹 @izumi_1118

為隆は顕頼の伯父で、顕頼の父顕隆の長兄。為隆と顕隆は頼国女を母親としていますが、出世は弟の顕隆の方が少し早く、顕隆は白河院時代、夜の関白とも言われる実力者です。頼国は頼綱の父親です。 ちなみに顕頼の孫に建春門院滋子がいます。 #顕頼

2014-03-17 22:49:47
泉裕樹 @izumi_1118

かなり省略してますが、信西と顕頼周辺の系図作ってみました。 #顕頼 #通憲 pic.twitter.com/p0Vgx9K9QH

2014-03-18 21:55:22
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泉裕樹 @izumi_1118

それでは次から24連投しますので、ご注意ください。基本的に年齢は通憲(信西)のものです。

2014-03-19 23:04:07
泉裕樹 @izumi_1118

【1】大学の卒論で「信西とその一族について」、修論で「中下級貴族としての藤原通憲」という研究をしていました。通憲(信西)の前半生と遡った一族の研究です。実は今も継続中です。なので、通憲の基礎資料『台記』を自分用索引作りながら再読中な訳なんです。 #通憲

2014-03-19 23:04:36
泉裕樹 @izumi_1118

【2】『台記』=頼長の男色と考えられがちですが、日記の総量からすればそんなに多くは無いです。ガチの可能性のある記述の数と同じくらい、『台記』には通憲(信西)の名前が出てきます。先に、通憲の簡単な生い立ちを次に投下していきます。 #通憲

2014-03-19 23:04:53
泉裕樹 @izumi_1118

【3】通憲は、7歳で父実兼が亡くなった後、おそらく祖母と伯父尹通に育てられたと思います。伯母の悦子も10歳の時に亡くなっています。17歳で重仲女との間に長男俊憲が誕生するも、同じ年に尹通が亡くなります。 #通憲

2014-03-19 23:05:10
泉裕樹 @izumi_1118

【4】崇徳天皇践祚の翌年、19歳で中宮(璋子)六位進、院号宣下により待賢門院の判官代、そして崇徳天皇の六位蔵人となります。蔵人となったころ、高階経敏の養子になり、藤原から高階に改姓します。 #通憲

2014-03-19 23:05:26
泉裕樹 @izumi_1118

【5】22歳で叙爵・五位になって蔵人を去り、しばらく散位となりますが、鳥羽院の北面になります(北面には武士だけが任じられるものではありません)。28歳の時、春日祭へ向かう14歳の中納言中将頼長の前駈を、院北面として務めます。 #通憲

2014-03-19 23:05:42
泉裕樹 @izumi_1118

【6】30歳の時、家成の歌合に参加して和歌も詠んでいたりします。同じ年、朝子との間に成憲(成範)が誕生。得子が鳥羽院の寵を得るようになった翌年です(なので私は、朝子は得子の女房ではないかと推察しています)。この頃に、日向守・鳥羽院判官代になります。 #通憲

2014-03-19 23:06:10
泉裕樹 @izumi_1118

【7】34歳の時に、得子の御産御祈を奉行しています。同じ年、『台記』に初めて登場します。鳥羽院の御所にいる日向守通憲と頼長が文談しています。この時、頼長は20歳。ちなみに、この年、近衛が立太子、後白河が元服しています。 #通憲

2014-03-19 23:06:21
泉裕樹 @izumi_1118

【8】35歳で、安楽寿院(実質は鳥羽院領)に上総国の所領を寄進し、後に美福門院得子に引継がれ、その預かりに娘がなっています。 #通憲

2014-03-19 23:06:37
泉裕樹 @izumi_1118

【9】36歳の年に鳥羽院が出家すると、鳥羽院は寺々へ御幸行くようになります。もちろんそれに通憲は付いて行きます。そして同じ年、近衛天皇が践祚します。37歳の歳、頼長は通憲を通じて、近衛天皇の大嘗会の目録を鳥羽院に渡します。これが『台記』二度目の登場。 #通憲

2014-03-19 23:06:55
泉裕樹 @izumi_1118

【10】こんな感じで、出家前の通憲は、鳥羽院の御所で、頼長と鳥羽院の連絡役として『台記』に登場することが多いですが、まるで通憲と文談するためだけに鳥羽院の御所に行ってるように読める所もあります。 #通憲

2014-03-19 23:07:12
泉裕樹 @izumi_1118

【11】38歳の歳。正月一日に日食の有る無しで、算道・暦道の人が相論しています。後日、友業と成佐は少し蝕があったと云い、通憲は全くなかったと云ったと、記しています。頼長はこの3人を賞して「当世之才士、只此三人耳」と記しています。 #通憲

2014-03-19 23:07:29
泉裕樹 @izumi_1118

【12】しかし、この年の8月、通憲が出家するとの噂を頼長は書きとめ、通憲は才があるのに顕官にいない、そんな世を批判しています。その少し後、通憲と会った頼長は、共に泣いて、通憲に笙を吹かせています(頼長も笙を吹くので、一緒にかもしれません)。 #通憲

2014-03-19 23:07:46
泉裕樹 @izumi_1118

【13】頼長が帰ろうとするところ、通憲は「自分は学をやめるが、殿下はやめてはいけない」、頼長は「その命を忘れない」と涙を流した。意訳ですがこんな会話も交わしています。通憲は自宅に仏堂をつくり供養までしましたが、顕頼と鳥羽院により出家は止められます。 #通憲

2014-03-19 23:08:04
泉裕樹 @izumi_1118

【14】翌年39歳、通憲は少納言に任じられる。この頃、頼長は通憲にお願いして易筮を教わります。通憲は、鳥羽院の熊野参詣に付いて行きますが、帰ってきてから2か月程病になります。その間に通憲は、氏神祟により藤原姓に戻します。 #通憲

2014-03-19 23:08:20
泉裕樹 @izumi_1118

【15】7月、病が良くなるも、通憲は出家(法名:円空→信西)。その5日後、頼長は通憲の出家を弔っています。その後、翌年にかけて易関係で頼長と交流。頼長最愛の随身公春が病中で、その平癒祈願に公春が行きたいという寺は験があるかどうか筮ってあげたり。 #通憲

2014-03-19 23:08:36
泉裕樹 @izumi_1118

【16】この時期、頼長との個人的交流はあるものの、信西は仏事三昧な暮らしをしています。 #通憲

2014-03-19 23:09:00
泉裕樹 @izumi_1118

【17】41歳の9月、天王寺参詣していた鳥羽院に呼ばれて合流。天王寺の絵堂で絵解きをしています。頼長もこの参詣の供をしていました。こうして再び、仏事を中心に鳥羽院に仕えるようになります。そして翌年42歳の正月、26歳の長男俊憲が近衛天皇の蔵人になります。 #通憲

2014-03-19 23:09:27
泉裕樹 @izumi_1118

【18】43歳の年。通憲の従兄弟で、鳥羽院の乳母子、顕頼がなくなる。頼長は、養女の入内前提の叙位にあたり候補の名前について、信西等に意見を求める。 #通憲

2014-03-19 23:09:43