顕頼&通憲&頼長まとめ

藤原通憲(信西)と藤原顕頼・頼長関連歴史研究ツイまとめ
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泉裕樹 @izumi_1118

【19】鳥羽院の天王寺参詣の帰り、鳥羽院の船に信西と頼長も乗船し、鳥羽院が信西に我朝故事を問い、それに滞りなく答えている。頼長は一言も付け加えられず「中心為恥」。 #通憲

2014-03-19 23:10:00
泉裕樹 @izumi_1118

【20】46歳の年。法皇密詔により去年の冬から国史の編纂を始めていることを頼長に話す。それが『本朝世紀』と言われている。この頃から長男俊憲が鳥羽院に近仕するようになる。 #通憲

2014-03-19 23:10:18
泉裕樹 @izumi_1118

【21】48歳の年。才を論ぜず父挙で子供に学問料を給うから、才の無い儒者が多いので、それを変えようと頼長の発案で、ちゃんと試詩が行われる事になった。受験者が書いたものを鳥羽院は信西に見せている。信西は、受験者で頼長お気に入りの菅原登宣を評価している。 #通憲

2014-03-19 23:10:34
泉裕樹 @izumi_1118

【22】その年の12月に鳥羽法皇領の肥前国神崎庄を預っていた平忠盛が亡くなると、信西が預かりとなる。49歳の年、家成が亡くなる。 #通憲

2014-03-19 23:10:49
泉裕樹 @izumi_1118

【23】50歳の年。頼長は、摂関を望み上表を提出するが、勅答が無かったため、易筮をネタに、何度も信西に様子をうかがったりするが、むげなく突き放される。これが『台記』に記された頼長と信西の最後の交流。 #通憲

2014-03-19 23:11:04
泉裕樹 @izumi_1118

【24】その後、近衛天皇が崩御し、後白河天皇が践祚。長男俊憲が、皇太子となった二条の東宮学士となる。翌年51歳。鳥羽院が崩御し、保元の乱が勃発する。 #通憲

2014-03-19 23:11:19