篠田千明『機劇〜「記述」された物から出来事をおこす〜』感想まとめ
篠田:スーラの点描画はよってみると点(デジタル)だけど引いてみると絵に見える。それに想を得て、今回の作品はひいた視点で演劇にみえるということを落としどころにした。佐々木:台本の後半に従って演劇的になっていったことをどう捉えるのかは今後の活動にも関わるだろう。
2014-08-10 10:35:33【篠田佐々木トーク】今回の上演の条件下では、今回の膨大な情報量のテキストが圧縮され配置されている。圧縮作業そのものが作品の一部。テキストに書かれていることとやっていることがずれていること。篠田はもともとテキストと発話する役者の関係性に批評的。
2014-08-10 10:35:11佐々木:コンセプチュアルアートはつねに、準備されているコンセプトと実行というものが分離して両立していて、ひとつのことに収斂しない。実行だけを知る観客にコンセプトが示されないときも、観客がぽかーんとなるという「体験」が存在する。上演という形式の中でその二者をどう扱うか。
2014-08-10 10:34:55篠田:さらに考えるべきはデッサン+テキストをパッケージとしてどうみせるか。後半のテキスト編をみせることで前半のデッサン会への目線を変えたい。デッサン会をやってみて、純粋に扱っている”フォーマット”を完璧に実行すると、その場から演劇でなくなるということが分かった。
2014-08-10 10:34:48【機劇佐々木篠田トーク】齋藤:篠田からの発注を受けて今回中心的に考えたのは戯曲のポテンシャルの問題。台本は章を追って一般的な演劇になっていくが、そこに到達するまでの部分を膨らませて記述して、篠田がリカットするようなイメージ。
2014-08-10 10:34:37【機劇佐々木篠田トーク】観客は観ていることが①②③の層のどこにあるのかはわからない。その原理をどう利用するのかが機劇がやっていることのひとつ。観客はいつも観ながら想像しているということが重要。テキストはその準備としてある。
2014-08-10 10:34:27【機劇佐々木篠田トーク】佐々木:演劇の場面で現在形でおきていることには3つの側面がある。①反復、再現(何度も上演する)②準備されたことを遂行する③即興的な要素。目の前のことがそのどれに該当するか観客は判別できないところに演劇の面白みがある。
2014-08-10 10:34:11【機劇佐々木篠田トーク】身体、スコア、テキストの3つで演劇は成立するが、観客がいてはじめて「上演」になる。デッサン会ではお客さんが対象を見ている行為そのものをあぶり出すことを試みている。描いている観客が見られる構造。
2014-08-10 10:33:50【機劇佐々木篠田トーク】篠田:機劇の4短編の関係性を辻村が整理した。劇がおこるまでの要素4つと、身体の関係性から考える。[身体編]身体ー身体/[スコア編]身体ースコア=プラン/[テキスト編]身体ーテキスト/[デッサン会]身体ー観客。
2014-08-10 10:33:16【篠田佐々木トーク】佐々木:今回扱っている要素、問いがひとつでなく重なっていて、そのうえ意図的とそうでないところもある。そこでまずは「機劇」の機が機会、チャンスの機であることから手がかりに考えるといいのでは。演劇の機とはなにか。
2014-08-10 10:32:50【篠田千明】本日最終日の『機劇』Bプロ、昨日8/9昼の回にて佐々木敦氏と篠田、辻村、齋藤によるアフタートークが行われました!トークレポートは後日公開しますが、ここでは抜粋してご紹介します。
2014-08-10 10:32:37齋藤桂太小劇場デビュー"機劇"本日最終日。自身の代表作"渋家"をアートフェア東京に出品するなど、主に現代美術の領域での仕事を行い、「渋家は演劇」と言う思考者によるテキスト。会場は森下スタジオです。
2014-08-10 06:12:01篠田千明『機劇』Bプログラムと『ホドロフスキーのDUNE』観た。どちらも素晴らしかった〜。こういうものを享受するために私は生きているとすら思うと同時に、自分に何がアウトプットできるかをまた考える。そしてこれからの創造の未来を少し憂う。
2014-08-09 23:49:03森下スタジオからすぐ締めだされるのも、「劇場」という死/詩の祭壇にしがみつくなって事やん。「観客」の生きた体で考えろ、って事やん。だから一旦破棄したTEXTが渡されるんやん!考えろ、俺、そして、死んだ言葉を生きた言葉にしろ。俺が俺によって。
2014-08-09 22:53:29死んだ言葉を役者達の生きた体で、生かしていたのが良かった。その為にめっちゃ、丁寧に手順踏んでる。 言葉の否に言葉で、否というのか?だがそれでは、空虚になってしまう。だから、音楽が必要。
2014-08-09 22:52:41劇の脇の桂太と篠田のごちゃつきも、水上から、何かが上がるときのあぶくみたいなもの。 最後はやはり、メロディか。 だから、一旦、観客の持っているテキストは一掃させて、新しいテキストを出て行く時に持たせる。
2014-08-09 22:49:02テンションが全体的に低かったのは、観客が「死んだ言葉/戯曲」に頼り切っているからだ。 だから、斎藤桂太の「死にかけ」の肉体が必要。
2014-08-09 22:48:45篠田千明 It’s my turn series『機劇~「記述」された物から出来事をおこす~ 』Bプログラム・デッサン会[絵]演劇[テキスト] 当然の如く、デッサン会との合わせての行程。デッサン会の約束事が、次の「演劇」の「手順」にもなってる。
2014-08-09 22:37:54なにをもって「描ける」と判断するか。「見る」と「描く」のあいだの経路。美大卒なのに、人体デッサンまったくやったことがないので感覚がわからず残念。。!
2014-08-09 22:05:56デッサンする側からすると、正確に写し取ればよいだけのはずなのに、なぜ正しい線を引けないのか不思議に思ったりする。もちろん技術や知識の不足が理由だけれども、美術ではなく演劇の問題としてデッサンを捉え直すならば、この不足は大した足枷ではないように思うのだ。でも描けない、という不思議。
2014-08-09 22:03:38機劇。アフタートークでは言及なかったけれど、「見る」「描く」ことでモデルの姿形を写し取るデッサンもテキストや再表象の謂いになってると思う。図像の場合、言語を書き写したりするのとは異なる翻訳・記譜の手段であるため、誤差や翻訳不可能さが生じる(はず)。そこに表象の困難さも見出せよう。
2014-08-09 21:59:36