6/28-6/29第二回Twitter読書会『私は海を抱きしめていたい』
「私」はきっと理性的にそれを錯覚していた。女は本能的にそれを錯覚していた。だから女は死ななければ浮気をやめられないと思っていた。 #twi_dokushokai
2014-06-29 00:04:31女は頭も悪く、高尚な恋を求めていたわけでもなかった。けれども、あるいはだからこそ、魂と繋がる最も堅実な方法=浮気を知っていた。肉慾の喜びではなく、純粋にただそれだけのために。その純粋さが、「私」には清潔に映ったのではないだろうか。 #twi_dokushokai
2014-06-29 00:09:01それとは逆に「私」は理性的に錯覚を錯覚として処理していた。肉体と繋がったからといって魂に繋がっているわけではないと考えていた。その証拠が、女の肉体。そんな証拠をずっと集めて、「私」は自分の孤独を立証しようとしていたのかも。 #twi_dokushokai
2014-06-29 00:16:35でも「私」はそういった自分の心が小さいことを自覚していて、それが悲しかった。ここでいう小ささが、海の大きさと、そして神様と貞操に繋がっているように思った。 #twi_dokushokai
2014-06-29 00:20:51貞操の範疇であるのなら、肉体と繋がることは魂と繋がることで、肉体と魂を両方愛するということ。けれども淫蕩であるなら魂は愛せない。ほんの些細な、女の気まぐれな仕草を愛でることしか。気まぐれに消えてしまうような愛は、きっと小さいと表現されるのだろう。 #twi_dokushokai
2014-06-29 00:26:09「私」は錯覚を錯覚と理性的に思い込もうとしているというポストがあったように恐らくそうで、しかし、その一方で女のような本能的な肉体のあり方、果てには魂のあり方というものを憧れ、そして憎んでいた #twi_dokushokai
2014-06-29 00:29:27だから最後に海を求めた。常識的に考えて、海を抱いて肉慾が満たされるように人間の肉体と本能はできていない。それは詩的で倒錯した感情だけれども、魂の不足分を補おうすれば、その大きさは海になって、海に比べて「私」は小さすぎた。 #twi_dokushokai
2014-06-29 00:34:05悲しいか。悲しいという表現がそれ以上でもそれ以下でもなくて何とも言いがたい。「悲しい」のだろうけど、もっと何かあるようなないような #twi_dokushokai
2014-06-29 00:35:28この作品の題が「抱きしめていたい」だったのは、そういうことなのかな、と。「私」は「抱きしめられたい」わけではなかった。人の身で、「海を抱きしめていたい」と願った。そういう人のお話だった。 #twi_dokushokai
2014-06-29 00:37:00本当と嘘から、魂と肉体を考えると、それぞれに本質的な何かがあってそこに求めてしまうから苦しいのであって、それを別々だからいけないのだよ、と取ることもできるように思われる #twi_dokushokai
2014-06-29 00:39:37この「幸福」というのが、魂の「幸福」ならば、きっと肉体を満たせば魂も幸福になるということはないということを「私」は思っていたのではないでしょうか #twi_dokushokai
2014-06-29 00:41:57「私」の孤独を立証するためであっても、依然として女の肉体を愛さざずにはいられない、ということが気になる #twi_dokushokai
2014-06-29 00:43:13私の本当の喜びは恋をすることではない。肉慾にふけることではない。ただ、恋につかれ、恋にうみ、肉慾につかれて、肉慾をいむことが常に必要なだけだ。#twi_dokushokai
2014-06-29 00:49:06@sui_sugar 普通に考えれば「恋に疲れ、恋に倦み」だと思いますが、他にも意図があるのかも? #twi_dokushokai
2014-06-29 01:03:50@Ministery そうか、倦むなんて言葉があるのですね。僕が初めこれを読んだ時、どこか恋や肉欲にせっつかれているような印象を受けました #twi_dokushokai
2014-06-29 01:11:40@sui_sugar Twitter小説として連載が再開された冲方丁先生の「テスタメントシュピーゲル」は第3回の課題図書としてはいかがですか。 #ubukata #twi_dokushokai togetter.com/li/686131
2014-06-29 22:40:56