信長など「天下人」は日本統治を、京都で『押し付け』られた?との仮説
- gryphonjapan
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浅井とか朝倉とか武田とか、あのへんに信長が一切合切容赦しなかったのも、本気で朝廷と幕府を支えるつもりで上洛したのに、それをしっちゃかめっちゃかにした(少なくとも信長はそう思ってる)連中に対して「少し……頭冷やそうか」状態になっちゃったのかも
2015-01-17 00:26:57@nonomaru116 それだけ日本の国家運営を、近世は公家ではどうにもならないレベルに高度化させたということなのでしょうね。
2015-01-17 00:29:41@nonomaru116 岩倉は公家の限界をきちんと認識していて、その上で新しい状況に朝廷はどう変革するのがベストか、という事を常に考えていた感じですね。そういう意味では変な私欲がないので、没落しても人が付いていった感じです
2015-01-17 00:40:28「信長など「天下人」は日本統治を、京都で『押し付け』られた?との仮説」 togetter.com/li/771062 に追加したい書評を思い出したので、引用する。 『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』 谷口克広 (学研) booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/…
2015-01-22 08:22:20対朝廷政策については幕末の勤王思想家は信長を勤王家の先達と評価し、明治8年の建勲神社創建にいたるが、勤王家という見方は田中義成『織田時代史』によって学説として確立され、第二次大戦期まで信長観を支配することになる。 @gryphonjapan
2015-01-22 08:23:16「ところが敗戦後、信長を中世を終わらせた革命家として評価する見方が浮上し、信長は天皇制否定したとする安良城盛昭の説まで出てくる。 1970年代には以下の三つの論考が出揃い、今日の信長論の基礎が出来あがった。」 @gryphonjapan
2015-01-22 08:24:06「朝廷に対しては「一歩離れてこれを操縦」したとする朝尾直弘「『将軍権力』の創出」(1970-4) 朝廷とは対立・緊張関係だとした奥野高廣「織田政権の基本路線」(1976) 信長は中世から離脱できず、朝廷に対しては公武協調政策をとったとする脇田修「統一権力と朝廷」(1977)」
2015-01-22 08:24:441990年代に入ると2の立場を先鋭化した論があらわれた。今谷明の『戦国大名と天皇』と『信長と天皇』である。馬揃えは朝廷に対する武力威嚇だったとか、三職推任が本能寺の変の原因だったとする見方は今谷の本で世に広まった。本書の副題が「信長は中世をどこまで破壊したか」となっている(後略)
2015-01-22 08:26:451990年代に入ると2の立場を先鋭化した論があらわれた。今谷明の『戦国大名と天皇』と『信長と天皇』である。馬揃えは朝廷に対する武力威嚇だったとか、三職推任が本能寺の変の原因だったとする見方は今谷の本で世に広まった。本書の副題が「信長は中世をどこまで破壊したか」となっている(後略)
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