「メシよそい」を哲学的な観点から見る -メシの多面的宗教概念、並びにメシとその声の主についての疑問点-
- selah_nesia
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「メシ」が功徳であることがももかれ氏の説。しかしメシを嫌うことを断食と取る説は、メシを物理的な食物として見ているわけで、ももかれ氏の説とはかみ合わないか。どちらもまだ考察を深めることができそうだ、結論を出すには早い。
2015-08-27 00:47:14ももかれ氏の説から考えた場合は、メシ嫌いの者は悪鬼や悪魔など、道から背いたものであり、「メシよそい=救い」に到ろうとする人間の障害である。 しかしもう一方の説では、あえてメシを拒否することで、「悟り=解脱=救い」に到ろうとしている。ここでは「救い」と「メシよそい」は同義ではない。
2015-08-27 00:49:35目指す点が「救い=解脱」であるところはほぼ同じ。それぞれの説が異なる点は「メシよそい」の本質が何であるか。それ自体が救いなのか、メシよそいすらも数多ある中の1つのプロセスにすぎないのか。「メシ」という概念が固まらない限り、それぞれの説も正当性があり否定ができない。
2015-08-27 00:52:20枯れ草氏の「メシヨソイ」を心の状態を写す鏡のようなもの、審判の機能を持つ行為と取るのも興味深い。私の説も氏の説も、人類の最終目標を救済ないしは解脱と置いているところに共通点が見出せるが、その前提を覆すような学説は未だ見つかっていないように感じる。
2015-08-27 00:49:11メシは功徳であるが同時に「救い」である。救いを求めず自ら高みへ登る行為、それがメシを嫌う行為という説を唱えたい
2015-08-27 00:48:35この場合、「高み」が何を指すのかはさて置いて、従来とは全く違う思想体系の出現が認められる。今まで唱えられてきた学説の殆どが伝統的宗教観に基づいて組み立てられていたのに対し、青氏の学説は近代的無宗教の立場から発されたもののように思われるのだが
2015-08-27 00:52:32なるほど。自分たちより高位の存在である神に近づくことで救いを求めるのではなく、あくまで自らの力で高みに到り、救いを必要としない存在になろうとする行為がメシを嫌うという行動に表れていると。人間の自己実現欲に基づいた行動だということか。
2015-08-27 00:57:55しかし自己実現の欲求は高度な欲求段階であり、それ以前の欲求がすべて満たされて初めて欲求として現れる物……。この考え方から行くと満たされた人間がメシを嫌う傾向にある……?
2015-08-27 00:59:00メシをよそおうとする、その行動に出ることも評価されるのでは? メシをよそえなければ、行動も、心意気も認められることがないのか?
2015-08-27 00:50:48氏の考え方は私の学説に近しいように思う。功徳を積むこと、そのプロセスは評価されてしかるべきではないか?如来と化す前のブッダが既に人の賞賛を浴びるがごとく、雲水が参詣者に尊ばれるように。
2015-08-27 00:54:41一人の人間がメシヨソイを行うと、今までメシヨソイを忘れていた人間達がこぞってメシヨソイを始め、その誰しもがメシヨソイという行為に対して何らかの絶対的な自信、万能感、あるいは慢心と呼ばれるものが見てとれる部分に着目していきたい(?)
2015-08-27 00:54:26ももかれ氏がここで根源的な疑問に至る
メシよそい=審判説を取るのであれば、審判をつかさどる高次の存在だと考えるのが妥当だけれど……功徳説から見た時、いったい何だ……? 功徳を積み、到った人間を来迎図のように迎えに来た阿弥陀様か…?
2015-08-27 01:04:58神を否定し、退けることで自己実現を目指す「メシ嫌い」たちは、しかしメシヨソイに挑むことでそのメシ嫌いを明白にしているように感じられるのだが、なぜ否定したはずの神に己を問うのだろうか
2015-08-27 01:04:02「よっそいよっそい!」を奇瑞の一種であると捉えれば、来迎であるとするのが妥当なのではないだろうか。奇瑞に関しては刻み海苔氏が詳しいので参照されたし。
2015-08-27 01:06:09「おめでとう」の言葉を告げる存在は、既にメシヨソイし終わった存在で、現在の我々よりは高次にいる。 ……まさかメシヨソイを達成したものが、次なるメシヨソイ達成者を選んでいるのか?
2015-08-27 01:08:14