大村益三氏の連ツイ『石ころと芸術』
RT @kktnk: 3、アーティストが売るものはその技術でありアイデアである(と思う)。つまり職人的な技か天然の技、もしくは頓知かレトリックのきれ。いずれに違うことに価値がある。でも技術もなく、アイデアもないことに意味はないのだろうか。落ちているものを売ることに意味はないのか。
2011-01-09 18:38:05RT @kktnk: ここではひとまずどこにでもあって、だれにでも、いつでも簡単に手に入り、なんの価値もないように思えるものを売ろうとしてみる。技術もなく、アイデアのきれもない。そこにはなんの価値もない。つまりそれはアートでもない。見いだされることもなく、見いだしうるなにもない。
2011-01-09 18:39:04「水石(すいせき)」という趣きのある、趣きとしか言えない「ジャンル」が存在する。「日本水石協会」のサイトから引いてみる。http://bit.ly/fVwQIY
2011-01-09 18:45:14「水石(すいせき)とは、山水景石の総称です。水石は、一石のなかから大宇宙を感得する物で、趣味の中でもっとも奥を極めたものといわれます。また、水石と盆栽は車の両輪ともいわれています。」http://bit.ly/fVwQIY
2011-01-09 18:45:33「自然芸術趣味の極致といわれる水石は、日本的美意識の神髄です。水石の観賞は、大自然に心あそばせ、すぐれた山水景石や姿石、紋様石を見て森羅万象を感じ、自然の風物詩に溶けこんでゆく幽玄な侘び寂びに通じる沈潜した無限の世界があります。」http://bit.ly/fVwQIY
2011-01-09 18:45:48所謂「水石」の世界では、「深山幽谷」のミメーシスを、その最上とするところがあり、また「奇石」に現れた「奇観」を以て最上とするものもある。しかし「つげ義春」の「無能の人」の「石」は、そうした「水石」の評価基準から外れているものだ。
2011-01-09 18:51:40それは少しも「水石」的に「珍奇=稀少」ではない。河原に普通に転がっている石を売ろうというその商売は、寧ろ買い手が、一種の「一石のなかから大宇宙を感得する物で、趣味の中でもっとも奥を極めたもの」としてそれを認めれば、それが最上の存在になり得るのだ。
2011-01-09 18:55:00さても「芸術」の成り立ちというものを考えるだに、果たして「芸術」的感興は、「芸術」として「プリペアード」された何物かを消費するところにその淵源があるのか。それとも、どうという事もない存在に対して、そこに何物かを「見い出す」ところにその淵源があるのだろうか。
2011-01-09 18:59:23要は、何であれ、そこに何かを感得出来る「能力」を有する者であれば、或る意味で、まだるっこしい表現である「芸術」の存在を待つ必要は無いし、実際「芸術家」という存在は、「芸術」に何かを見るよりも、こうした単なる「石」の如き存在に何かを感得する「能力」を有する者であると言えなくもない。
2011-01-09 19:06:55売ろう RT @omuraji: 「自然芸術趣味の極致といわれる水石は、日本的美意識の神髄です。水石の観賞は、大自然に心あそばせ、すぐれた山水景石や姿石、紋様石を見て森羅万象を感じ、自然の風物詩に溶けこんでゆく幽玄な侘び寂びに通じる沈潜し…http://bit.ly/fVwQIY
2011-01-09 19:07:42蘭鋳の世界には幾つか「系統」があり、それぞれに「宋家」が存在するが、いずれにせよ「血統」的に優れた幼魚が、数万円から数十万円もする蘭鋳の「価値」を決定するのは、やはり「水石」と同じ「見立て」による。
2011-01-09 19:25:07例えば「総体的にバランスの整った姿」「力強さや派手さの中に気品や風格を持つ」「スムーズな泳ぎ出しをする」「流動的で軽やかな泳ぎをする」等々の「評価基準」により、その魚の「番付」が決定される。「横綱」や「大関」ともなれば、その魚は無上の「気品」や「風格」を備え持つという事になる。
2011-01-09 19:25:56たかがと言っては何だが、魚の姿形や泳ぎ方ごときに、しかしこうした「気品」や「風格」を見る、見る事の出来る「能力」を有する者が、最上位の「粋人」と呼ばれる。そしてこうした「粋人」を評価する伝統が存在する国には、西洋文明的「芸術」は必要ないとも言えるのかもしれないと言ってみたりする。
2011-01-09 19:28:51確か初夏だったか、明治神宮で展示会やるんですよね^^ステキですよ〜♪ RT @omuraji: 「水石(すいせき)」という趣きのある、趣きとしか言えない「ジャンル」が存在する。「日本水石協会」のサイトから引いてみる。http://bit.ly/fVwQIY
2011-01-09 21:19:46果たして「水石」の「展覧会(展示会)」に「展評」は存在し得るだろうか。いや存在はするのだろうが、しかしそれは「アート」の「展評」とは全く異なるものであろうし、寧ろそうした「石っころ」への「評論」は、「アート」が依拠するところでもある「評論」行為そのものの限界を指し示すものだろう。
2011-01-10 07:27:25