清少納言の覚悟、についてはたらればさんと同じことをわたしは枕草子や定子のお墓の墓守になった、清少納言の生涯からも受け取ったのだけれど、文にできずにいたんですよね。やはり的確な言葉をもってしかと伝えるたらればさんはすごいなあ。私はまだまだひよっ子で、いつか自分の言葉で伝えたいな。
2016-05-07 15:26:27個人的に、清少納言の定子への思いと同じか、それ以上に一条天皇の定子への思いは激しかっただろうと思うんだよなあ。 定子亡き直後に、本当であるなら寝所に侍れる身分ではない出仕中の定子の妹を召し続けて、産褥で彼女を失って望みを絶たれるまで一条は定子を追い続けたのだと思うんですよ。
2016-05-07 15:30:46定子は、産褥の場で亡くなるのだけれど、その几帳のそばに辞世の句を3つ結びつけていたといわれるんですよね。もう、自分が出産に耐えられないことはわかっていて、それでも一条との子を産む、という覚悟をもった母の顔が覗えて切なくて。実際に第2皇女を産み落としたその後、後産の最中に亡くなる。
2016-05-07 15:43:23@tarareba722 定子の葬儀の日に詠まれた一条の歌、『野辺までに心ばかりは通へども 我が御幸(深雪)とも知らずやあるらん』をあわせて、定子の一条にあてた歌を読むと切なくなります。 たらればさんのツイートを読まれる方がこの和歌に触れることを願って、リプします。
2016-05-07 15:49:12@tarareba722 ちなみに天皇は聖体で死は最も忌むものだったので、愛妻の死に顔は見ることもなく葬儀の日を迎える。雪が降る日であり、土葬を望んだ彼女の意に沿って御霊屋という建物に彼女の亡骸を放置するという葬儀法が営まれ、彼女の亡骸に雪が降っている、それを踏まえた歌です。
2016-05-07 16:02:22その土葬を望んだという彼女の辞世の句が『煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ』です。 11年後の一条天皇の辞世の句はこれです。 『露の身の風の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞ悲しき』 塵とは現世。産褥で亡くなった女性は成仏できないという俗信がありました。
2016-05-07 16:12:1511年ごしの返歌、ではないかと私は思うのです。死を迎える場でこれを聞いた行成は『皇后(定子)にあてた歌だ』と直感した、という文を日記に残しています。
2016-05-07 16:14:30@tarareba722 一条天皇の辞世の句については連続リプライするのも申し訳なくなったので、私のツイートにしたためておきました。もし興味のある方がいらしたらよかったら。
2016-05-07 16:17:49@tamalovepoaro ここらへんは史料を詳しく読んだわけではない雑感ですが、当時の帝はまだまだ政治的にも最高意思決定機関であり、宗教的シンボルでもあるわけなんですが、それでも恋歌が中心になって語られるんですよね。つまりこれ、西洋でいう神話のような扱いなんだなと思うのです。
2016-05-07 19:15:04@tamalovepoaro @tarareba722 平安時代の人たちの、文化と美意識の高さには、日本人の心、命がけで誰かを想う・守る情熱が、感じられます。だからこそ、千年も経過した現代でも、伝わっていると思います。私たちは、千年後の人たちに、伝えられるものが、あるでしょうか?
2016-05-07 16:01:43@maria4482 @tarareba722 私ができることは古典文学を読み、その素晴らしさを賛し、紹介し、他の人に伝え薦める事のみです。今まで伝わるにも、写本といった手書きの本や人の評によるものでありましたし、胸を打たれた人々がなければ今にも未来にも伝わらないでありましょう。
2016-05-07 16:37:57@maria4482 @tarareba722 いまの雑誌新聞文学、日記や身近な資料など千年先に残るものもあるかもしれません。それは時代の流れに任せるしかありません。『これ素晴らしい』『これ素敵』といいながらいろいろなものを樂しめばもしかすると千年先の人の目に残るかもしれません。
2016-05-07 16:40:36@tamalovepoaro @tarareba722 次世代に語り継ぎ、伝えられるものは、さまざまな人間の「手間」を、通しています。遺こるものと、遺こらないものの、違いは何か?人間の、歴史の積み重ねで「伝統文化」は、重いものと思います。
2016-05-07 18:12:31ちなみに、後世の載っている和歌集によって歌の言葉は少し違っています。死にかけの帝がつぶやいたので聞き取りも大変であったろうし、その聞き取りをしたのは彰子、といわれています。 彰子に宛てたものという論もあれば、定子に宛てたものという論もあります。
2016-05-07 16:22:45行成は定子の訃報を聞いた一条天皇の慟哭の場にそっと立ち会った官人のひとりなので、おそらくこう受け取ったのでしょう。定子の訃報を知った一条天皇が行成を見た瞬間言った言葉はこうです。 『皇后の宮、すでに頓逝すと。 甚だ悲し』 (『権記』長保二年十二月十六日条)
2016-05-07 16:27:33うた恋い、については尼そぎになった定子のすがたを描くことによって枕草子や当時の日記などをよく読んでいた人はあっ、と思ったはずなんですよね。何も知らない一般読者には多分伝わらないものがあるかもしれない。 彼女は自分で自分の髪を切って凛と世と決別するという前代未聞の皇后、だった。
2016-05-07 17:01:17最後まで凛として教養ある后の宮、でありましたなあ。 住み慣れた自分の家に道長勢により火が放たれ壊されるのを俥の中からしかと見て、ショックを受けず、世に絶望しないひとはいないだろう。 それでも、尼になった妻でもいいから、と無理を押してでも還俗させるという一条の執心もすごいよなあ。
2016-05-07 17:04:59歴史と運命の神に翻弄されて、幸福と絶望を一身に浴びて味わったすさまじい人生を送った人を側で見て仕え続けた清少納言はあのような花束を残したんだよなあ。しみじみ。
2016-05-07 17:07:16藤原定子が世を去るのは24歳。わたしはいま21歳。おそらく彼女は早くから大人びていたのだろうなあ、わたしよりずっと。皇后冊立が14歳。立后してからの11年は満ち足りた幸福と激動。
2016-05-07 19:52:54わたしは、枕草子は訳本がたくさん出回ってるけれど古文体こそ残って欲しいし沢山の人に読まれてほしい。訳文を読みながら古文体を見るだけでもいいから。少しずつ魅力が開かれてくるよ。
2016-05-07 20:46:06道長勢は枕草子を改変したりあれは嘘だったとか言い立てることはできただろうけど、たぶんいちばんそれを許さないのは紫式部だろうなー。
2016-05-09 11:07:24