淀川長治と映画批評クロニクル(未完成版)
- torusano1124
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僕の意見は大体以上だが、付言しておくと、僕はアダムさんの発言内容には異論があっても、そう発言した彼の心情は疑っていない(そもそも個人の心情に他人がどうこう言うべきではない)。それよりあの産経記事の問題は、記者がなんら自身の批評的態度を示さず、読者を煽ることに終始している点である。
2016-04-11 15:19:25要するに、あの記事を書いた記者には、いま述べたような「線」の視点が決定的に欠けているばかりか、自分ではそうした映画制作、配給などにまつわる状況遷移を少しも調査分析することなく、アダムさんの言葉を隠れ蓑に「ね、日本映画ひどいですよね」と読者に賛同されることだけを求めている。最低。
2016-04-11 15:24:06補足。日本の映画批評が紆余曲折の果てに「進歩」してきたと書いたが、ではおまえは映画批評の現状をよしとするのか、と訊かれることを考慮して付言すると、過去と比較して少なくとも風通しはよくなったのではと思う。表層批評も文献研究も軽いコラムもお互い食い合わずに共存できているという意味で。
2016-04-11 20:23:4760年代の映画批評には文学に対する強烈なコンプレックスとそれを克服しようとする気負いがあり(同時にそれがこの時代の映画批評を濃密なものにしていたのだが)、80年代には蓮實重彦の圧倒的な影響力がひいては極度に窮屈な「選別」のシステムへとつながっていた。そうした「重圧」を(続く)
2016-04-11 20:28:54(承前)90年代のフラット化が洗い直した。それまで光が当たらなかった映画に違う角度から光が当たり、クズと呼ばれるもののなかにある面白さが再発見され、旧来的な権威が失墜してあらゆる映画が批評の対象となった。こうした時代の空気をおそらく無意識的に反映していたのが映画秘宝の誌面だった。
2016-04-11 20:33:11そうしたフラット化によって、映画の趣味や言説が細分化した結果、それ以前の「漠然とした映画好き」がいなくなった、と僕は見ている。背景にはもちろんインターネットの普及にともなう過密情報時代の到来がある。人は皆、自分の求めている映画だけを、面白い映画だけを観る時代になった。
2016-04-11 20:41:46それ以前の、映画誌や行楽誌、あるいはTVの映画解説しか情報媒体がなかった時代には、映画ファンははたしてその映画が面白いのかどうか、いまとは比べものにならないほど限られた前知識しかない状態で映画に向き合っていた。結果、当然ながらつまらない映画、だめな映画にぶち当たる頻度も高かった。
2016-04-11 20:47:19そういう状況を、多くの映画ファンは「あたりまえのこと」として受け入れていたはずである。そうした繰り返しのなかで時にかけがえのない出会いを経験することがある。その瞬間を待ちわびて皆、スクリーンやブラウン管の前に座った。
2016-04-11 20:53:53情報過多な現在では、映画を観るという唯一絶対の優先事項だった(はずの)体験を飛び越えて、しばしば映画の情報だけがひとりあるきする。実際には映画を観ていないひとまでも観たつもりになってしまうほどに。このような状況下で批評を必要とする観客がさらに限られてくるのは当然であろう。
2016-04-11 21:01:36すぐれた批評家は、こうした空気を敏感に感じ取りながらも、映画について何事かを書き記そうとする。その根幹にあるものは、おそらく普遍的に、自分自身の内的な必然性である。この内的必然性がない書き手は、時代や読者に踊らされてしまう。そういう心性は、はっきりと文章にもあらわれる。
2016-04-11 21:16:00こうした認識のうえで僕なりに結論めいたことを書けば、「日本映画はつまらない」と言っているひとほど実はあまり日本映画を観ていない(はじめから観る気がない)、「日本の映画批評はだめだ」と言い募るひとほど実はよい批評を読んでいない(はじめから読む気がない)、ということになろうか。
2016-04-11 21:24:10