廃駅のトンプソン

オールドロンドンの東にある大とうもろこし畑を二つ越えてアーグルトン川を渡ったその先に、セント・アーチ駅という廃駅がある。 人知れず線路の上で朽ち果てようとする、かつて世界最速を誇った蒸気機関車C42、通称『スワロー』の残骸は、ぼくだけが知っている秘密の場所だった。
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- @canontom

オールドロンドンの東にある大とうもろこし畑を二つ越えてアーグルトン川を渡ったその先に、セント・アーチ駅という廃駅がある。 人知れず線路の上で朽ち果てようとする、かつて世界最速を誇った蒸気機関車C42、通称スワローの残骸は、ぼくだけが知っている秘密の場所だった #廃駅のトンプソン

2016-07-14 22:08:48
- @canontom

スワローと呼ばれ慕われていたその機関車は、ボイラーは錆に食われてロッドは折れて、最速どころかもはや歩けそうにも無い。けれど破られた天井から見える星空は特別なもののような気がして、一等晴れた夜にはここに来て、ぼうとするのが癖になった。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 22:26:40
- @canontom

もくもくとけぶる鉄と煙突とレンガの街、オールドロンドン。煤けた工夫(こうふ)たちが陽気にビールを飲んでいても、空から霧が消えることはそうそう無い。だから晴れた日というのはそれだけで特別で、ぼくがセント・アーチ駅まで自転車を走らせる理由としては十分だった。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 22:33:21
- @canontom

セント・アーチ駅は門が崩れて、壁も崩れて、入り口らしい入り口は残っていない。けれど不思議なことに、額に入った大きな路線図だけは一切無傷で壁に掛かっている。ごちゃごちゃと線が伸びる中、スワロー号の線路は単純だった。速過ぎて曲がれないし、止まれなかったから。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 22:42:43
- @canontom

明朗なスワロー号の線路が好きだった。だからセント・アーチ駅に這入ると必ず路線図を見た。でも今日だけは何かが変で、路線図を眺めるのもやぶさかに、ゲートの向こうに自然と目をやっていた。この違和感に名前をつけると気配というものになるのだろう。この先に誰かがいる。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 22:47:02
- @canontom

ぼくはワークグローブを嵌めて、ベルトポーチのモンキーレンチに手をかけた。明るい場所ではないから、遂にこの場所がごろつきの目に止まってしまったのかもしれない。もうすぐ始まる万博のために、オールドロンドンの警官たちが取り締まりを強化しているから。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 22:51:19
- @canontom

ゲートを越えて8段ばかりの階段を上がるとホームに出る。4本の線路を囲む5つの島と連絡階段。苔と大木に食われた駅、その線路の一本にスワロー号は眠っている。そしてスワロー号の前に人がいた。人影は、ぼくが直したベンチに座って、じいっとスワロー号の火室を見つめていた。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 23:00:59
- @canontom

その人のとても綺麗な金髪を見て、モンキーレンチを取った右手を恥じた。その張り詰めた華奢な背中を見て、ごろつきを疑ったこころを恥じた。気配の主は女の子だった。たかそうなゴシックドレスに身を包み、しくしくと泣く女の子だった。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 23:05:56
- @canontom

ぼくはじっと、じっと見つめることしかできなかった。さめざめと震える背中と、黄金で染め上げたかのように艶やかなその髪に釘付けになっていた。なにか、近づけば崩れ、触れれば散り、かと言って離れるとこの身が地獄の業火に焼かれそうで、これっぽっちも動けなかった。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 23:19:53
- @canontom

すべての生き物が一切の主役を彼女に譲ったように、その夜は完全無血の夜だった。満天の星空と輝く月、そして耳が痛くなるほどの静寂。大きな意思がぼくに向かって、彼女の泣き声を聞けと言わんばかりの静けさだった。彼女はしばらく泣き続け、そして、か細い声でこうつぶやいた。 #廃駅のトンプソン

2016-07-14 23:23:48
- @canontom

「漸く会えました、兄様」 湖面にそっと鈴を転がすような声だった。その女の子は、C42……スワロー号のことを兄様と呼んだ。女の子はか細い足で立ち上がり、ゴシックドレスの裾から伸びる切ない指先で、くろがねの蒸気機関車に触れた。まるで薄氷を撫でるような手つきだった。 #廃駅のトンプソン

2016-07-15 17:22:58
- @canontom

今までの人生で、これ程までに何かを凝視したことがあるだろうか。スワロー号を愛おしそうに撫でるその手つきが、胸の内をざわつかせた。ぞっとするほど切なそうな瞳が、はっとぼくの方を見た。それすらも俯瞰している感覚に陥っていたぼくは、とっくに隠れることを放棄していた。 #廃駅のトンプソン

2016-07-26 14:44:44
- @canontom

「誰」 心臓が凍りつくほど冷たい声で彼女は言った。飢えた野良猫のように怯えた瞳が、ぼくの右手を開かせた。何者もいない深い洞窟の中に石を投げ入れたように、モンキーレンチが階段を打った。静寂が破れ、葉擦れや虫の音が戻ってくる。息をするのは久しぶりのような気がした。 #廃駅のトンプソン

2016-07-27 15:50:09
- @canontom

まるで何百年も喋っていなかったかのように、言葉はぼくの喉元で大袈裟に引っかかった。目の前で天上の美貌を持った少女が怯えていて、ぼくはなにかを言って、具体的にはぼくの正体を打ち明けて、彼女を安心させなければならないのに。きっと、もう既に、彼女の虜になっていた。 #廃駅のトンプソン

2016-08-04 14:58:15