ついに朝廷軍は純友の船団に火を放つことに成功し、純友は大敗します。大宰府を失い、本拠の島に撤退します。おそらく痛かったのは大宰府失陥よりも、虎の子の船団を多く失ったことでした。
2010-03-21 21:38:11@zyesuta 水はけのいい土地に配水して水田をやる農業技術を持っていたのが武士団と寺院です。で、従来の排水のない湿田に比べ圧倒的に生産性が高く、人口増をもたらしました。
2010-03-21 21:38:19この大宰府の攻防で、純友軍は実に800艘を失ったといいます。全艦隊で1000艘のうちの800ですから、純友の海賊団はこの一戦で事実上壊滅しています。艦隊決戦に敗れたわけです。
2010-03-21 21:39:28朝廷に本気だされたらまあ勝てないよなとまとめたら見もふたもないんですが、当時の朝廷は常備軍をもたず、必要に応じて集める形だったので、純友がもっと早く都を襲撃できていればあるいは、と思わなくもないです。
2010-03-21 21:41:38@kumakuma1967_o ふむふむ・・・。なるほど、寺と武士が力をもつのはそういう技術知識があったため、という理由もあるわけですね。
2010-03-21 21:42:27その後も瀬戸内の海賊が絶えることはなく、戦国まで続くのですが、しかし瀬戸内すべてを糾合するような大海賊、それも朝廷に反旗を翻す、なんてのは絶後となります。
2010-03-21 21:43:45純友も将門も鎮圧されてしまって、地元勢力が望んだであろう体制改革は果たされませんでした。が、鎮圧にあたった貴族、その子孫が後代に源平の武士となって、最終的にこの国のあり方を変えていくことになりました。
2010-03-21 21:45:44他方、日本の海賊については、瀬戸内だったりシナ海だったりに出没して相変わらずブイブイ言わせるんですけれども、これが欧州のように「私略船」として公認されて海軍になることはなく、結局は国内統一戦争が終わるとただのヤクザとして鎮圧されたり大名に収まったりいたします。
2010-03-21 21:48:37このことは、結局のところ日本の統治者は国のあるべき姿として農民を中心にすえていて、海の上に国を築くことをよしとしない、というスタイルの問題なのかなとも思います。
2010-03-21 21:53:35またはるか後代、日本に千年以上ぶりの外洋海軍が建設される明治に至っても、結局沿岸海軍的な発想になる遠因は、もしかするとこのあたりの歴史的経験にあるのかもしれない、などとも想像してしまいますが、それはちょっと大きすぎる話になりますのでまたゆっくり考えたいところです。
2010-03-21 21:54:34と、こんなところで雑談は終わりなんですけど、なんかまとめて下さった方がお二人もいらっしゃるみたいで、こんな適当な話でいいんだろうかとたいへん恐縮です。
2010-03-21 21:56:17