- kintoki_naruto
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織田有楽斎。大坂の陣開戦前に退去した織田信雄(信長次男)同様、彼ら織田一族が、淀殿派閥を形成していた観があります。淀殿から秀頼への権力委譲がなかなかなされないのも、彼らが自分の発言力を担保したいという思惑があり、淀殿も引くに引けない形だったようです。
2016-12-04 21:01:12有楽斎は、冬の陣の段階で、家康の指示を受け、秀頼に和睦を受け容れさせようと説得にあたりましたが、秀頼はなかなかうんといいませんでした。これも、有楽斎の立場が淀殿に比して、秀頼とは多少距離があったためと思われます。
2016-12-04 21:03:40冬の陣後の情勢はかなり混沌としています。淀殿は江戸下向も辞さないという姿勢で、かなり軟化していました。秀頼も、家康との和睦を遵守する意向を崩していません。そのため、牢人に退去を命ずる立て札をだしていました。
2016-12-04 21:05:17しかしながら、京都所司代板倉勝重が3月にしたためた報告書によると、牢人の数はかえって増えており、兵糧や武具も買い付けているとあります。いっぽう、紀州藩主浅野長晟は、そうした話は噂話にすぎないと退けており、報告の内容が分かれています。
2016-12-04 21:08:19宣教師ら外国人の史料をみると、冬の陣は「大坂方の勝利」とこぞって記録しており、これは上方の風聞を反映したものでしょう。したがって、「豊臣方に勝機あり」という認識が広まっていたものと思われます。牢人衆が秀頼の意向に反し、退去するどころか増えていったのは、このせいでしょう。
2016-12-04 21:09:35浅野長晟が「大坂方には不穏な動きはない」と述べているのは、上層部、つまり秀頼サイドの動き(牢人退去の立て札など)を伝えている可能性があります。
2016-12-04 21:10:50そうしたところ、大野治房が勝手に大坂城の蔵をあけ、配下の牢人に扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。これに大野治長は不快感を示しますが、最早こうした流れはどうすることもできませんでした。秀頼・治長といった首脳部は、牢人を統制する能力を失ってしまったわけです。
2016-12-04 21:12:30そこで秀頼は、牢人を召し抱えるほか対処のしようがないというふうに考えを改めます。というよりも、そうせざるをえなかったのでしょう。そこで家康に、牢人を召し抱えたいが、摂津・河内は戦争で荒廃してしまったので、一ヶ国加増して貰いたいと要請します。
2016-12-04 21:14:00しかし家康からすれば、牢人は「処罰しないが」「退去させる」が和睦の条件でしたので、「牢人を召し抱えるための加増」などという要求は論外でした。
2016-12-04 21:15:16大坂城内ですが、大野治長・後藤又兵衛は牢人退去もやむなし、大野治房・毛利勝永・長宗我部盛親は再戦、真田信繁・木村重成・明石全登は中間派(再戦は望まないが、牢人は召し抱えて欲しい)という派閥であったようです。
2016-12-04 21:20:04こうしたなかで、大野治長が襲撃され、治房が首謀者という噂が流布します。完全に当事者能力を失っているとしか思えません。信繁は、1月に姉村松殿に送った書状で「明日はどうなるかわからない」と述べており、早々に覚悟を固めたようです。
2016-12-04 21:23:07続く2月に娘婿石合十蔵宛の返書で、「私と大助は籠城したからには、死ぬともう決まっている。たとえ気にいらないことがあっても、娘の「すへ」を御見捨てなく」とあり、3月の小山田茂誠・之知父子宛てになると、「私のことはこの世にいる者とは思わないで下さい」とまで、本音を吐露していきます。
2016-12-04 21:25:16ちょうど最後の書状を送ったのは、板倉勝重が家康に「牢人増加・兵糧買い集め」を報告した時期ですから、信繁自身ももうコントロールは不可能と腹をくくったのでしょう。もっとも、この人はやたらと厭世的な文章を書く癖があるのですが。
2016-12-04 21:26:35さて、今日の家康は「豊臣滅亡」を目指して動いていましたが、実際の目標は、どうもそうではなかったようです。この点は、来週お話しした方が良いと思いますのでここまでにしますが、いずれにせよ、牢人問題に尽きるわけです。
2016-12-04 21:30:34これはようするに、片桐且元の「三案」を冷静に判断し、どれかを受け容れていれば、生じなかった問題であるのですが(最終的に淀殿・秀頼・大野治長の辿り着いた答えは同じだったので)、人間というのは常に合理的な行動を取れるというわけではないことを、よく教えてくれるものでしょう。
2016-12-04 21:33:49信繁と矢沢頼幸との対面。実際にはこの場には小山田茂誠はおらず、出陣してきたのは息子の之知でした。なお、小山田父子は昌幸から「真田」を名乗ることを許されているので、一門待遇。矢沢頼幸は実は一門ではなく家老待遇です。
2016-12-04 21:36:13信繁→信之の書状は、三谷さんの当初案をベースに時代考証会議で議論しました。小山田茂誠宛の書状から「殿様(秀頼)からは御懇ろにしていただいているが、よろず気遣いが多い」という部分と、石合十蔵宛の書状から「すへのこと、御見捨て無きよう」という部分を付け足して時代劇語にした記憶が。
2016-12-04 21:40:18実際に信之が読んでいる書状は、それをさらに当時の和様漢文に直していますから、堺さんが読まれている言葉とは違います。署名と花押が映ったんでしたっけ?記憶が錯綜していますが、あれが信繁の最後の花押です。
2016-12-04 21:42:14板倉勝重。京都所司代で、大坂の陣以前は片桐且元に協力して豊臣蔵入り地の管理もしていました。台詞で名前だけ出ていますが、実は家康が読んでいる書状は、織田有楽斎の「あれ」以外は、板倉勝重からの書状を文面含めて作っています。
2016-12-04 21:44:01なお、真田丸ですが、取り壊された後も、元あった場所が「真田丸」と呼ばれ続けています。夏の陣の軍功報告書などをみると「真田丸を通って大坂城内に突入し」みたいな感じで地名となっている感じです。それだけ、印象深かったんですね。攻め手としては。
2016-12-04 21:51:25後藤又兵衛。実際には身内はいるのですが、まあ強がっているような感じでしょうか。幕府は後藤又兵衛を仕官させてやろうといろいろ世話をやいた経緯がありますから、幕府に一番近い立場です。牢人衆の中でもっとも穏健派だったのは、そのため。
2016-12-04 21:55:54