「原爆投下」をめぐって――米調査報道、AJEドキュメンタリー、日本人ジャーナリストの回想
肥田医師は、原爆投下された1945年8月6日当時、28歳(軍医)だった。私は彼に東京でのコンファレンスで出会った。私が知り限り、この悲劇の責任は日本政府やアメリカにあると、公の場で非難した人物は彼が最初だった。25万人が今なお後遺症に悩まされていると訴えていた。
2011-08-06 21:37:33機密解除されたアメリカの公文書によると、投下数週間後には、数十人に及ぶ専門家、研究者そして軍人が現場検証に訪れている。生き残った人達が彼らを目の当たりにし、どのような感情を抱いたか…想像に難くない。
2011-08-06 21:43:30機密解除されたアメリカの公文書によると、投下数週間後には、数十人に及ぶ専門家、研究者そして軍人が現場検証に訪れている。生き残った人達が彼らを目の当たりにし、どのような感情を抱いたか…想像に難くない。
2011-08-06 21:43:30彼らは、慎重に爆弾の影響を追った。4000度の熱は屋根瓦を溶かし、強烈な衝撃波はビルを倒壊させ、放射線は全てを撃破した。
2011-08-06 21:46:03合衆国では、既にハエやネズミそして囚人に対してまでも放射線実験を行っていた。そして今度は、広島と長崎の何万もの人々から、原爆の効果を査定する機会を得たわけだ。 1946年、時の大統領トルーマンは、原爆傷害調査委員会(通称 ABCC)を設立する。
2011-08-06 21:47:29翌年、広島市中心部に急設された列車の車両を利用した事務所は、1950年になると放射線の影響から十分に離れ、市一帯を見渡せる高台の超近代的な施設に発展していた。
2011-08-06 21:48:57施設では、沢山のアメリカ人医師や研究者が様々なプログラムを考案・追加する一方、被曝者の家庭訪問など日々の作業は現地で採用された日本人が対応した。1951年、1000人いた従業員のうち920人が日本人だった。
2011-08-06 21:51:481947年から50年までの間、実に十二万人もの生存者が検査され、白血病、癌、不妊症そして加齢の経過など遺伝子研究の一次資料となっている。
2011-08-06 21:53:15被曝者達は、ABCCに調査・研究の対象として招かれたのであって、治療やケアされることは一切ない。原爆投下について、アメリカ側に後悔あるいは謝罪の意があるとして受け止められることがあってはならない…というのが彼らの考えだからだ。
2011-08-06 21:55:17科学者らにしてみれば、被曝者は病気であるからこそ価値があるという事なのだろう。 (治癒してしまったら調査の対象ではなくなってしまう)
2011-08-06 21:56:50原爆投下時、肥田医師は直ちに中心部の彼が勤めていた病院に駆けつけようとする。しかし町中燃え盛り、人々皆は郊外へ逃げようとしていた。川の中、ある士官から6キロ先の仮設診療所へ向かうよう指示される。
2011-08-06 21:58:18診療所へ到着後間もなく、彼は恐ろしい疫病を目撃する。 40度以上の高熱にうなされる者。 皮膚に紫色の斑点が出ている者。 扁桃腺が崩れ落ちてしまった者。 粘膜は出血し、口が腐り始め、髪の毛が束となって抜け落ちる。 大量に吐血してあっという間に死んでいく人々…
2011-08-06 22:01:28アメリカ軍広島占領までの6週間、日本の科学者は現地で大量の情報を収集している。しかし、これら臓器のサンプルや写真などの資料は、全てアメリカ軍に没収された。 注: この点については、日本側が進んで資料を提供した。投下後の調査は日米合同の作業だったという報告あり。←多分こちらが正しい
2011-08-06 22:06:12占領下、アメリカはABCCで得た情報を日本の医師や研究者に伝えることを拒否した。1951年まで、日本では誰一人原爆について記事にすることを禁じられている。 それ故、肥田医師は長い間この恐るべき疾患の原因について理解することが出来なかった。
2011-08-06 22:08:25--補足-- 肥田医師は、約30年後に出版されたアメリカのスタングラス博士の本によって「長年の謎が解けた」とインタビューに答えています。
2011-08-06 22:14:09スタングラス博士は、国内の放射線降下物の影響を研究する為、1952年から67年まで勤めたウェスティン研究所(核技術と関連が深いとされている)を辞職している。
2011-08-06 22:17:09以下、S博士のインタビュー: そもそも、広島や長崎の郊外にいた人々が受けた放射線降下物にこれ程大きな威力があるとは、誰一人予測していなかったのですよ。
2011-08-06 22:19:23爆風から直接ガンマ線を浴びた人と、郊外にいた人との(被害の)比較をすると大きな差がない。これが悲劇だ。Segi医師が指摘するように爆撃周辺部だけでなく日本中で癌の罹患率が上がった。70年代後半、私がこの本を出版するまで少量の核活動の影響は低く見積もられていた。
2011-08-06 22:20:09原爆投下よりも50年も前から開発してきたレントゲンの使用量についても誤っていたことになる。レントゲンで突然死ぬことはないので、一発の爆撃による外部被曝の方がはるかに深刻だと誤解していた。
2011-08-06 22:21:20フリーラディカルが常に細胞膜やDNAにダメージを与えうる状態、しかし、全部が一気に一緒に来ると互いにぶつかり合いそれぞれを不活性化する。これを発見したのは、カナダのエイブラム・ペトカウ博士。1972年、シカゴで最初の原子炉が作られてから実に30年も経っているのだ。
2011-08-06 22:22:05七万人の児童を対象にしたABCCの調査では、放射線による遺伝子への作用は認められなかった。 スタングラス博士はこれに異を唱える。原爆投下直後に生まれそして死んだ子供が調査の対象に入っていないからだ。
2011-08-06 22:25:47彼は、このような欠陥のある調査は、残存する放射線の影響を隠すためだったとみている。 そればかりかABCCは、致命的に危険な放射線は、強力な爆風によってのみ生じており、爆心地から1―2キロの範囲に限定されると執拗に主張していたのである。
2011-08-06 22:27:01再び、S博士のインタビュー: 以来、この調査結果が、当初の政府の許容被曝量500ミリレムに繋がるのです。大人の胸部X-rayが10、子供が2-3ミリレムと言うのに。原子力プラントのエリアの住民は、一律500ミリレム!
2011-08-06 22:28:27