彼の反乱について注意深く読むと、彼の行動が分かる。彼は他部族を扇動しては反乱を起こさせ、有利であれば流れに乗って戦火を拡大し、不利になればすぐさま降る。彼の反乱はその繰り返しだ。そして、彼は矢面に立つ事をずっと避け続けた
2011-11-29 00:02:34では何故晋の記録において、この反乱での樹機能の存在感が大きいのか?それは、乱を始めるのも彼であり、乱を治めるのもまた彼だからだ。彼が扇動して反乱が起こり、彼が異民族と晋との和を取り持つ。泰始から咸寧にかけて、それが繰り返されていた。
2011-11-29 00:09:18晋軍は弱兵だったわけでも無力だったわけでもない。胡烈や牽弘、楊欣の敗死が目立つが、所々で異民族を破り、それによって彼らの降伏を誘っている。特に戊己校尉の馬循は何度も鮮卑を破っている。
2011-11-29 00:14:41降伏は偽りのものであるか、好意的に見ても一時的なものである。晋はそれを知らなかったか、或いは知っていても降伏を受け入れ続けた。そして、晋が一瞬でも隙を見せれば、再び三度乱は起こり続けた。それは隴右を疲弊させ続けた。
2011-11-29 00:19:22樹機能が乱の中心にあり続けられたのは、この降伏の巧みさである。恐らく彼には人たらしの才能があった。何度反旗を翻しても、降れば受け入れてくれる。戦争を続ける気が起こらない程に涼州は疲弊していたのか?だが、降伏と反乱を繰りかえさせれば益々疲弊するのは目に見えていたはずだ
2011-11-29 00:22:38一つの転機が咸寧三年である。この年、都督の司馬駿は文俶に命じて三州の兵を統率させ、樹機能を討たせた。これだけ大規模な戦力の運用は、これまでの反乱への対処とは異なる。恐らく、業を煮やした司馬駿が、樹機能の勢力を完全に叩く事を考えたに違いない。
2011-11-29 00:25:31だが結果はどうか?またしても樹機能の降伏を受け入れる形で乱が終息している。これは都督の本意ではない。文俶か、或いは司馬駿が、ひょっとすると両方が丸め込まれたのだ。これが、後に馬隆の遠征において彼らが影を潜める理由である。
2011-11-29 00:27:04文俶らが降伏を受け入れる事で為した平和は、翌年にはすぐに破られた。若羅抜能が晋に反旗を翻し、楊欣を敗死させたのだ。樹機能もすぐさま加わり、涼州を陥落させるという、これまでに無い状況を作り上げた。
2011-11-29 00:55:07これが樹機能の戦略だった。乱を起こし、不利になっては降り、じっくりと晋を疲弊させる。そうして、隴右における晋の支配を完全に瓦解させる。気の長い、だが確実な方法であった。
2011-11-29 00:56:23そこに現れたのが馬隆である。これまでで最大規模に膨らみ、涼州への道も閉ざされた状況で、乱を鎮圧する為に彼は西へと軍を進めた。彼の行動については既に述べているので、彼がそれまでの将軍とどう違ったのだけ述べよう。
2011-11-29 01:00:43馬隆は武威まで堂々と前進し、涼州への道を再び開いた。これには樹機能も肝を冷やし、再度、これまでと同様の方法を取ろうと動いた。反乱の中心にあった部族を馬隆の元に派遣して、降伏を行ったのだ。
2011-11-29 01:02:35馬隆も前任者同様、この降伏を受け入れた。だが、彼はそこからが違った。馬隆は降伏を受け入れても矛を収めず、あくまで樹機能の討伐を進めたのだ。
2011-11-29 01:03:24馬隆は、樹機能の息の掛かった没骨能らを逆に説得し、彼らを率いて樹機能を討つという行動を取った。これには樹機能も大いに狼狽したはずだ。反乱と降伏を繰り返し続けるという彼の戦略が、ここに来て破綻したからだ。
2011-11-29 01:06:37切羽詰った樹機能は、自分の、更に自分に協力的な部族を率いて馬隆との戦闘に及ぶが、結果は敗北であった。詐術によって涼州を覆さんとしたペテン師の哀れな末路である。
2011-11-29 01:09:16結局、涼州の乱を鎮める為に必要なものは何だったのか?それは強力な兵でも無く、堂々たる武威でもない。樹機能を討つという強い意志だった。馬隆以前の将軍には、最も重要な意志が欠けていたのだ。
2011-11-29 01:10:46文俶や司馬駿が馬隆を支援しなかったのは、自ら判断ミスによる涼州の失陥という負い目があったからだ。彼らにとって、樹機能を討つのは、皇帝より派遣された将軍では駄目だったのだ。文俶らは、馬隆を失敗させ、その後で樹機能の討伐に乗り出す腹積りだったのだろう。
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