安藤礼二氏「明治期の神智学問題におけるチベット・モンゴル学の影響」
杉村楚人冠の友人で、新仏教運動の生みの親である古河老川もチベットに行けば神智学の教えもよりクリアになり仏教の新たなステージがひらかれると考えていた。能海寛もその仲間で、単身チベットに向かい消息を絶った。
2012-03-02 22:48:31仏教の起源とその可能性を探るために西域とチベットは最も重要な場所だった。その探検に乗り出したのが若き大谷光瑞で、光瑞とともにヨーロッパ留学したのは文学寮の教師二人、その内の一人が藤村の小説のモデルになった藤井正宣。光瑞は藤無染より二つ年上、
2012-03-02 22:52:54チベットにはダライラマ13世、モンゴルにはジェブツンダンバ・ホトクト8世という2人の「活仏」がいて、ダライラマはモンゴルに逃れていた。
2012-03-02 23:02:42信仰的にも、政治的にも、チベット-モンゴル問題というのは西本願寺の学徒にとっては大問題だった。神智学徒にとっても。だからアニー・ベザントが日本とチベットの仲介を試みた。
2012-03-02 23:07:21光瑞はヨーロッパから西域を経てインドにたどり着いたところで、父光尊の死を知る。急遽日本に帰国して、新たな門主となる。自身が西域ぢ仕入れた新知識を築地別院で高輪仏教大学・高輪第一仏教中学の関係者に報告する。その中には藤無染もいたはず。
2012-03-02 23:13:30東京外大の夜学にモンゴル語科が出来たのも、そういった流れが一つの原因となっていた(もちろんそれだけではない)。当時の学長は文学寮出身者の高楠順次郎。
2012-03-02 23:15:43東京外大の夜学にモンゴル語科が出来たのも、そういった流れが一つの原因となっていた(もちろんそれだけではない)。当時の学長は文学寮出身者の高楠順次郎。
2012-03-02 23:15:43東京外大の夜学にモンゴル語科が出来たのも、そういった流れが一つの原因となっていた(もちろんそれだけではない)。当時の学長は文学寮出身者の高楠順次郎。
2012-03-02 23:15:43そのモンゴル語科の第一期生として通ったのが大学卒業前の折口信夫。折口に言語学の手ほどきをした金沢庄三郎はこの外大の朝鮮語の教師であり、金沢の中ではモンゴル語-朝鮮語-日本語は同じ系統の言葉だった。
2012-03-02 23:19:06言語学的探究、宗教学的探究、神智学的探究というのは並行する現象だった。折口信夫にモンゴル語を教えた教師ロブサンチョイドン(ダンとも)を次に招いたのが大谷光瑞。六甲山中にタージ・マハルを模した二楽荘をつくり、そこで私塾をひらいた。
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