愛でなく

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@crow_henmi

ところで「沙耶の唄」における「愛」ってのはまあ今木さんの云うとおりの解釈でいいと思う。愛というのは遡及的に生成されるし便宜的な価値判断の中にある一瞬の状態としてあり、その瞬間、まさに現在においてはその愛は「愛」として成立しうる。ただ、それが「試される」ことが往々にしてある。

2010-06-21 15:17:51
@crow_henmi

試される強さに抗える愛というのは純愛のひとつの条件で、そういう意味では「沙耶の唄」における愛というのは試されるというよりすでにしてそれしか選びようのない選択肢である、という側面が強い。

2010-06-21 15:19:16
@crow_henmi

ところで、自分的な純愛の要件。相互のアプリオリな総合的判断とか超越的審級とかに支えられ、誰に対してもどのような状況においても永遠として存在するような「愛」。内的にゆらがない全的な他者との絆。それに近づけば近いほど、純愛度が高まる、ということで。

2010-06-21 15:21:22
@crow_henmi

もちろんこういうイデアとしての純愛というのは存在しえないので、程度の問題として語られることになるわけだが。

2010-06-21 15:21:58
@crow_henmi

でまあ、愛というのはアポステリオリな便宜的判断に基づき、状況の中で選び取られる暫定的なもの、というのは真実なんだけど、そこになにか超越的な審級や価値判断をのっけてしまわないと美しくならない、という幻想が存在しているのがややこしいとはいえる。

2010-06-21 15:26:17
@crow_henmi

「沙耶の唄」が純愛として成立するなら、それは世界に決定的に疎外されたふたつの実存が本当にありえないような偶然を通じて出会ったその「奇跡」に多くを拠っているのはいうまでもない。疎外の徹底性と顕現した奇跡が、彼らの便宜的判断を遡行的に「かけがえのない、超越的なもの」へと跳躍させる。

2010-06-21 15:29:38
@crow_henmi

ただまあそれは当人同士の問題であって、はたから見れば「都合のいいやつ」になる。普通ならここで内部と外部の感覚のすり合わせが行われるが、郁紀=沙耶の愛は外部と接続されず、むしろ積極的に切断する要素が物語内部で駆動しており、ゆえに読者はそれを単純に「純愛」とくくれなくなる。

2010-06-21 15:34:14
@crow_henmi

虚淵玄が物語をそれぞれの登場人物の視点から書いたことによって、個人的な「純愛」が第三者的視点から批評されてしまうという要素を予め含んでいる「沙耶の唄」という作品において、単純に「純愛」を云々するのはぶっちゃけ片手落ちだとは思う。

2010-06-21 15:37:30
@crow_henmi

ところでこの云いとか、まさに奇跡を軸にして過去の意味を遡及的に変化させ「運命」を形成しているような。大変好みではあるんだけど>http://tinyurl.com/2f2dhx3

2010-06-21 15:41:04
@crow_henmi

祈りが偶然を「(潜在的に)望んでいた奇跡」として受容させる。偶然の中に意味を見出すための取っ掛かりになるのが「祈り」だ。とか。

2010-06-21 15:45:11
白潟(入渠中) @_imaki

「第三者視点から批評されてしまう」ということこそが一種の「試練」と受け取られているような気がするんですが。「純愛」と称したがる向きにとっては。純愛に与えられる試練とは、他人や世間や世界の無理解=他者性の謂であるので。

2010-06-21 16:12:31
白潟(入渠中) @_imaki

主人公にとっては純愛ではないが、物語としては純愛、みたいな。、とりあえず誰もフミノリを褒めないし。

2010-06-21 16:13:17
@crow_henmi

@_imaki 物語内部の関係においてはそれは正しいのですが、物語自体がその第三者の批評をもプレイヤーに読ませる仕掛けで、ここでプレイヤーはまさに物語外から第三者的に郁紀=沙耶の関係を見下ろしてしまえるという仕掛けがあると思うのです。

2010-06-21 16:16:08
かなめ @wkaname

『沙耶の唄』 が 「人は見た目が九割」 (どころかほぼ 10 割) をテーマにしていることは,プレイした成人なら 100 % 理解することだと思うのだが,それは僕の願望にすぎない.実際には,驚くほど 「読めていない・観れていない」 やつが多いのだった.

2010-06-21 18:59:53
かなめ @wkaname

「純愛」 は,『沙耶の唄』 の本質をカモフラージュしている,どころか,むしろ正反対とも言える.だって,もし 「純愛」 を 「見た目や肉体の美しさに惑わされない愛」 だと考えれば,主人公の郁紀は沙耶の真の姿が見える正常な眼を持った状態で,沙耶に恋をしなければならない.

2010-06-21 19:04:33
かなめ @wkaname

そして,醜い怪物にしか見えない瑤と 「純愛」 しなければならない.でも,『沙耶の唄』 はそうならない.郁紀は最後まで可愛い沙耶を愛し続けるだけだ.その点,元ネタの手塚治虫 『火の鳥 復活篇』 は違う.主人公のレオナはロボットのチヒロと心的な融合を果たす.

2010-06-21 19:09:04
かなめ @wkaname

そして,主人公レオナのビジュアルと融合した密輸団の女ボスは破滅する.少なくとも,『沙耶の唄』 は 『火の鳥 復活篇』 に比べて全然 「純愛」 がテーマの作品では無い.騙されてはいけない. *別に,ここでは作品の優劣は全く問題にしていないので,勘違いしないでね.

2010-06-21 19:13:37
@isurugi908

物語の主人公を外から見た状況を並べ立てても、それで物語の構造が把握できたとはとても思えない。沙耶の唄の見所は、周囲の状況と主人公の認識のギャップであって、郁紀の主観を無視して物語の構造を客観的“でしかない”方法で説明してしまうのは完全に片手落ちじゃないかと思う。

2010-06-21 21:38:17
@isurugi908

郁紀の見ているものが幻で、郁紀の愛情も幻が生んだ愛情だからこそ沙耶の唄には幻と愛情の間で綱渡りをするような面白さがあるのだと思う。それが果たして本物かどうかってのは重要な問題ではないと思う。だってそのほうが面白いし。

2010-06-21 21:47:48
@isurugi908

幻が愛情を生むことがあれば逆もまたしかりで、幻を欺瞞や錯誤、憎しみに変えたり、愛情を美や真理、正義に変えたりすることで物語ってのは色んなバリエーションを出してるんだよ。とりあえずエンターテイメントなら問題なのは面白いかどうかで正しいかどうかは二の次。正しいに越したことはないけど。

2010-06-21 21:59:43
白潟(入渠中) @_imaki

@crow_henmi http://bit.ly/ctFKmDは最初から物語外の話をしていたつもりなんですが。プレイヤーは一人称主体の語り手の知見に賛同するわけでなく、語り手の無理解ぶりを嘆きつつ苛立ちつつ読み進めるだけではないかと。

2010-06-21 22:32:44
白潟(入渠中) @_imaki

そして、そのような語り手に賛同してしまうような、自分以外のプレイヤーの「無理解」ぶりを想像しつつ、俺だけがこの作品が「純愛」であることを理解できているんだ、と。海燕氏が「人を選ぶ」なんて言いたがるのはそのへんじゃないかしらね。

2010-06-21 22:33:00
白潟(入渠中) @_imaki

それにしても、ガンスリのそれを単なる洗脳扱いしていた海燕氏が、『沙耶の唄』のあれを「純愛」と呼んではばからない、というのがもにょりの原因か。

2010-06-21 23:40:14
@_philo_sophia

いや、沙耶の唄は恋愛もの、特にエロゲにおける恋愛ものに対するアンチテーゼとみるのが自然だと思うよ。

2010-06-22 02:08:44
@_philo_sophia

まあ、「認識」という観点を無視して、沙耶の唄は語れませんよね。

2010-06-22 02:17:18