ヤセノヴァツ強制収容所について
- jonathanohn
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「クロアチア独立国」におけるセルビア人虐殺(1941~42年) アウシュビッツを知る者は多いが、ヤセノヴァツを知る者は少ない。ヤセノヴァツとは、クロアチア共和国の一地方都市であると同時に、第二次世界大戦中の「クロアチア独立国(NDH)」に存在した強制収容所群の名称でもある。
2012-06-14 13:51:44戦後、NDHにおけるヤセノヴァツの犠牲者は、60万人から70万人とされた。「占領軍とその協力者による犯罪を確定するためのクロアチア共和国委員会」は、ヤセノヴァツにおける犠牲者に関し50万から60万という数字を上げている。
2012-06-14 13:55:15しかし、1991年にユーゴスラヴィアから独立したクロアチア共和国は、この意味での「ヤセノヴァツ」を認めず、存在した収容所に異なる意味づけを行っている。後にクロアチア初代大統領となるトゥジマンは、ドイツによるユーゴ侵略50周年記念にあたる91年4月、犠牲者の数を3万人とし、
2012-06-14 14:06:15(承前)「ヤセノヴァツ」は、クロアチア民族とカトリック教会を加害者に仕立て上げる、セルビア側の「神話」であるとした。その年の11月7日は、トゥジマン大統領がハーグにおけるユーゴスラヴィア会議の席上で、ヤセノヴァツにおける死亡者の数を2万人に減らした。
2012-06-14 14:17:20その1か月前、クロアチア軍がヤセノヴァツ博物館を占拠、歴史的文書や物的証拠の一部を破壊し、さらに、NDH研究の第一人者とされるイェリッチ・ブティナ女史も殺害された。さらに、クロアチア共和国が92年に設置した「戦争中および戦後における犠牲者確定委員会」は、
2012-06-14 14:29:02(承前)ヤセノヴァツにおける犠牲者を「2238人にすぎない」とした。トゥジマンの主張は、収容所が農園と作業所を抱える「労働キャンプ」であったこと、キャンプ内の労働は囚人の自主経営に任されていたというものであった。
2012-06-14 14:38:27そこでは、残虐行為で知られるナチス・ドイツの保安警察および保安諜報部の特別行動部隊でさえ、「衝撃的」とする「箍の外れたセルビア人追放行為」が起こっていた。1943年8月、ドイツ外務省の南東ヨーロッパ担当特命全権代表に任命されたヘルマン・ノイバッハーは、回想録の中で、
2012-06-14 14:56:37ドイツ外務省情報局(1941年7月2日)によると、セルビア居住地域におけるクロアチア人による「身の毛もよだつようなテロ」の拡大が各地から報じられ、トロル参事官(臨時代理大使)は、セルビア人迫害の先鋭化により、近い将来クロアチアが抑制の効かない不穏地域になるであろうことを予測した。
2012-06-14 14:53:23(承前)「『三分の一はカトリックに改宗、三分の一は追放、三分の一は殺害!』の最後の点だけは実現されたといってよいが、ウスタシャ指導部が100万人のセルビア人を殺害したというのは独りよがりの誇張である。手元に届いた報告書をもとにすると、
2012-06-14 15:02:56ウスタシャの模範は、イタリアのファシズムやドイツのナチズム体制であったが、ドイツ自体は36年当時も、ウスタシャを対等な交渉相手とみなさず、ウスタシャに対する支援はもっぱらイタリアとハンガリーが行った。ドイツに対し無条件で協力する用意のあったウスタシャが、
2012-06-15 11:19:51(承前)ドイツの後押しを受けて政治の表舞台に突如躍り出たのは、第二次世界大戦中の41年4月のことであった。この時、パヴェリッチは、ムッソリーニの称号「ドゥチェ(指導者)」に相応する「ポグラヴニク」を名乗り、ナチス・ドイツの傀儡政権を誕生させた。
2012-06-15 11:22:06しかし、政権掌握当時のウスタシャには数百人の党員しかおらず、対イタリア国境を決定したローマ議定書(5月18日)が国内で「屈辱的」とされ、ザグレブ駐在のホルステナウ独全権将軍によれば、至る所でドイツの「保護領化」を望む国民の声が聞かれた。しかも、政権内部に激しい対立があり、
2012-06-15 11:24:35(承前)「敵」を排除して大クロアチアを実現するという以外に、政策の共通項はなかった。「大クロアチアは枢軸国にとっては貧弱な同盟国にすぎなかった。ウスタシャは暗殺に明け暮れして、戦闘は行わなかったらである」と言われる所以である。支持基盤の薄いウスタシャを支えたのが、
2012-06-15 11:27:02・・・こうしたセルビア人排除や殺害の勧めには、現代の十字軍的な意味合いが付与され、クロアチア人の屈折した立場が表現されている。1941年6月13日カルロヴァツの演説の中でプク法務大臣は、東方世界と西方世界との境がドリナ川にあることを指摘し、「教会とカトリック信仰に対する忠誠こそ、
2012-06-15 11:44:41(承前)我々の行動規範である。歴史は、我々がカトリック教徒でなければ、とうの昔に消滅していたであろうことを教えている」と述べた。パヴェリッチ親衛隊の首領でカトリック司祭の「イヴォ・グベリナは、「東方でカトリック信仰の前哨に立つ」ことを神の摂理が定めた任務とし、
2012-06-15 11:50:40(承前)「傍観は、創造主に対する罪」と、直接行動への勧めを行っている。西洋文明と、野蛮とされるバルカンの狭間にあるクロアチア人のカトリック的使命と、純粋な「クロアチア人のカトリック国家復活」を強調することは、西洋への帰属を望む願望の裏返しでもあった。
2012-06-15 11:52:41それは、ヒトラーに対して「クロアチア人がスラヴ民族ではなく、究極的には血統的にも、種族的にも、ゲルマン民族に属すことを証明したい」というパヴェリッチの発言(41年4月13日)に表現されている。
2012-06-15 11:56:45・・・ウスタシャ・ドボイ地区長官に任命され、地区の実験を握ったカムベル司祭は、「クロアチア人とクロアチアにとり、セルビア人問題以上に大きな問題はない」とし、セルビア人が過去数百年間、クロアチアの民族領土に侵入しクロアチアを分断したことを批難、
2012-06-15 12:04:59(承前)嫌悪と戦慄を呼び起こすセルビア人の性質として、「うそつき、こびへつらい、だまし、脅迫、自画自賛、犯罪、不公平、排他性」を挙げている。聖職者の発言は、武装ウスタシャや一般市民によるセルビア人の殺害を正当化する機能を果たした。
2012-06-15 12:09:031941年5月4日付の法令で「秩序安寧局」の設置が決定され、「ウスタシャの闘争とクロアチア民族による蜂起がもたらした成果を維持し、クロアチア国家を防衛する」目的で、ナチスの親衛隊(SS)に倣った武装ウスタシャと警察機構の構築が開始された。
2012-06-15 12:15:54当初この機関が、政敵を取り締まるべき収容所群をその管轄下に置いたが、41年8月26日以降は、警察機能と情報工作をより強化するため、既存の「秩序安寧局」を拡大強化した「ウスタシャ管理局(UNS)」が創設され、全収容所システムをその支配下においた。
2012-06-15 12:26:02管理局の任務は「クロアチア独立国の自由と独立、クロアチア民族の秩序と安全、またウスタシャ解放運動の成果を危険に曝しうるいかなる活動も阻止すること」にあった。ドイツの帝国保安本部(RSHA)と同様、秘密情報局と国家保安警察の機能を備えたウスタシャの組織で、
2012-06-15 12:44:05