限界研『21世紀探偵小説』をめぐって(完全版)

限界研のミステリ評論集『21世紀探偵小説』に関する、巽昌章氏、渡邉大輔氏、笠井潔氏、飯田一史氏、藤田直哉氏、氷川透氏らによるやりとりです。
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巽昌章 @kumonoaruji

また、『眩暈』にせよ『リベルタスの寓話』にせよ、ある時期以降の島田の作品は、最後まで読んでも迷宮的な不安感が残る。笠井潔の表現を借りれば、謎ー解明ー謎というわけだ。それは、島田の提示する解決が、あまりに込み入った、しかも偶然を多用した因縁話のようなものだからだ。

2012-08-02 15:43:49
巽昌章 @kumonoaruji

従来の本格推理小説ではこれは欠点になる。実際、『眩暈』で島田を見切ったという本格ファンも見かける。しかし、飯田が取り組むべき島田の「可能性」はそこにこそあるのではないか。この観点からすれば、脳科学の知見は、不安の隠喩、あるいは不安に満ちた小説世界を構築するための一要素である。

2012-08-02 15:49:12
巽昌章 @kumonoaruji

先に述べたように「島田理論」によって島田の小説を理解すべきではない。理論家島田が、「冒頭の幻想的な謎」が必要だと説いたからと言って、『眩暈』の異様な世界像をその実践とみなす必要はない。また、島田が科学好きでも、作中に現れた推理を「科学」の名のもとに理解せねばならないともいえない。

2012-08-02 15:57:15
巽昌章 @kumonoaruji

むしろ、小説家島田のかかえこんだヴィジョンの露頭として、理論家島田の言説があるともいえる。こうした私流の理解は、脳科学の取り入れがもたらす可能性を矮小化するものだと批判されるかもしれない。そうかもしれないが、少なくとも脳科学が推理小説に何をもたらすかが具体的に解明されてはいない。

2012-08-02 16:02:24
巽昌章 @kumonoaruji

これに対し、飯田の議論は、「幻想的な謎」「科学」といった島田理論の用語や、「物理トリック」「ハウダニット」「ホワイダニット」といった伝統的な本格推理小説の用語にとらわれすぎ、真に観察すべき事態が、こうした言葉の枠に収まらないものではないかという懐疑を欠いている。

2012-08-02 16:09:53
巽昌章 @kumonoaruji

島田に限らない。たとえば、小島正樹を、島田の物理トリック志向を受け継いだ「豪快な物理トリック」の一言で評するのは、一般読者の理解水準からしても不十分だろう。小島といえば、「過剰」「やりすぎ」の人とされているからだ。たんに驚天動地の物理トリックがあるのと、「やりすぎ」は違う。

2012-08-02 16:17:30
巽昌章 @kumonoaruji

「やりすぎ」とは、事件のトリックがすべて解明されたとき、「限られた時空間にそれだけの出来事が集中的に生じるなんて」という不条理感をもたらすものだ。推理のステップは合理的でも、それが描き出す真相の全体は、「なんでそんなことが」という不安を残す。つまり、謎ー解明ー謎である。

2012-08-02 16:24:11
巽昌章 @kumonoaruji

小島を島田荘司の可能性を継ぐものとして位置付けるには、この観点が必要だと思う。

2012-08-02 16:25:09
巽昌章 @kumonoaruji

そして、島田らの可能性を測るにあたって、ハウダニット、ホワイダニットといった分割は有効だろうか。フーダニット、ハウダニット、ホワイダニットの3要素が更新されれば「21世紀探偵小説」なのか?そうではないだろう。待ち望まれているのはそれらを支えていたゲシュタルトの更新ではないか。

2012-08-02 16:33:04
巽昌章 @kumonoaruji

藤田直哉「ビンボー・ミステリの現在形」は、フリーター、ニート、ネット難民といった現代的な貧困の形態と推理小説との関係を模索しているのだが、そこにはふたつの問いがあるように思われた。

2012-08-03 10:27:20
巽昌章 @kumonoaruji

ひとつは、文中小森健太朗の発言を引いて述べられている「論理や推理の中にまで食い込むような貧しさやリアル」という問題である。たんに舞台や題材として「貧困」を取り上げるだけでなく、それが推理小説の謎解き過程を変容させてゆく可能性を考えるということだろう。

2012-08-03 10:27:50
巽昌章 @kumonoaruji

もうひとつは、現代的な貧困の見えにくさとどう対峙するかである。藤田によれば21世紀日本の貧困は、理解されにくく、同情されにくく、ドラマにならない。それが物語を構成し、あるいは駆動することはいかにして可能か。むろん、日常接している貧困のすべてがそうだといっているのではないが。

2012-08-03 10:28:44
巽昌章 @kumonoaruji

フリーターで食いつないでいて飢えることはなく、ネットや携帯電話によってそれなりに娯楽やコミュニケーションも確保されているが、先行きの希望は何もない、藤田がイメージするのはそうした生活だ。そこからどんなミステリが生まれうるか。

2012-08-03 10:36:03
巽昌章 @kumonoaruji

ドラマ、物語になりにくいという点については、物語を作るのは作者の想像力だ、といった反論があるかもしれない。終戦直後の混乱期だって『獄門島』のような事件が頻発したわけではなく、横溝の創造によってはじめて物語は生まれたのだ、とか。しかし、藤田の考えているのはそんなことではないだろう。

2012-08-03 10:47:23
巽昌章 @kumonoaruji

現代的な貧困の諸相に寄り添い、あくまでそこから「想像力」を出発させること、それによって、「ビンボー・ミステリ」ならではの作品を生み出すこと。それは考える意義のあることだ。

2012-08-03 10:50:14
巽昌章 @kumonoaruji

そこで詠坂雄二に着目するのもよい目の付けどころだろう。ということで、この方向でさらに頑張ってほしいのだが、やはり、いわゆる「第三の波」時代の小説・批評との関係で欠落があるのが気になる。

2012-08-03 10:54:30
巽昌章 @kumonoaruji

ひとつは、「ゾンビ」という用語である。現代的な貧困の、生きているようで生きていない感覚を藤田はそう呼ぶ。藤田がこの言葉に自分なりの問題意識をこめているのはわかるし、文中でも用語の説明はされているので言葉自体に文句をつけるいわれはない。

2012-08-03 11:05:09
巽昌章 @kumonoaruji

ただ、生の不全感と推理小説の関係は、20世紀末にすでに論じられていた。それと、藤田のいう「ゾンビ」はどう違うのかが、この論文の限りではよくみえない。

2012-08-03 11:11:34
巽昌章 @kumonoaruji

たとえば、笠井潔は、綾辻をはじめとする新本格の作品群に生の不全感を見出していた。そうした傾向を象徴する作品が、登場人物すべてを人形に見立てた『匣の中の失楽』だったのも周知の事実だ。ちなみに、この大作には豪奢なお屋敷も出てくるが、おおむねビンボー学生の生活環境が舞台になっている。

2012-08-03 11:15:02
巽昌章 @kumonoaruji

人間=人形的感覚を潜在させた20世紀後半の推理小説と、藤田の「ゾンビ」との違いは何か。むろん、『匣』や『十角館』の時代にはネットも携帯電話も、ニートなどという言葉もなかったが、問題はそうした社会的差異が、人形、ゾンビという言葉がそれぞれ表現する「不全感」の内実をどう変えたかだ。

2012-08-03 11:23:32
巽昌章 @kumonoaruji

藤田はその差異のあり方を考え済みなのかもしれないが、もっと明示的に文中に織り込み、それをふまえて21世紀のミステリを模索するという構えにした方が良いのではないか。

2012-08-03 11:25:36
巽昌章 @kumonoaruji

人形は腐らないがゾンビは腐る。人形の肌はつるつるしているがゾンビには体毛が生えている。ゾンビは肉だ。詠坂あたりの作品の身も蓋もない生々しさは、そんなことを考えさせるが、むろんこれは私の側の勝手な思い込みだ。

2012-08-03 11:35:17
巽昌章 @kumonoaruji

もうひとつ気になったのは、最近の作品における変な論理、妄想的論理についてである。たとえば、藤田は石持浅海の作中人物について「社会のある層の人間を存在しないことにして思考を行う癖がある。これと論理の歪みは、おそらく関係性をもっている」とする。

2012-08-03 12:07:51
巽昌章 @kumonoaruji

石持作品の登場人物が、「ある範囲の人間を考慮から外して思考をおこなう」なら文句はないのだが、「社会のある層を存在しないことにして思考を行う」といえるかどうか。この違いは大きい。「社会のある層」というと、いかにも特定の社会階層(たとえば貧困層)を差別しているようだが、そうなのか。

2012-08-03 12:17:05
巽昌章 @kumonoaruji

藤田が上げている根拠だけで、石持作品の主人公一般に「社会のある層を存在しないことにしている」とはいえないだろう。他方、「社会のある層」ではなく、ある範囲、要するに、主人公の仲間以外の人々を度外視しているというのなら容易に肯定できる。藤田論文の文脈からしてもそれで十分ではないか。

2012-08-03 12:23:25
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