- contractio
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そうか。上山氏の場合は、常に人々がしなやかでいられるようなセラピカルな身体技法の実践と、学問的・理論的言説と、http://t.co/CtnxK2gR http://t.co/JW43K0MYのような個人的なモチーフというか感慨との絶対的一致というか統合を求めているのか。
2012-11-27 05:26:44けれども通常は、この3つのものは別の次元に存在すると見なされ、しかも相互に干渉しない方がよいと思われてる。干渉し合うと各々が歪められて混乱し、その結果全てが台無しになってしまうから。例えば個人的モチーフが理論や技法に強く干渉するときは、有害な防衛や転移としてのみだと見なされてた。
2012-11-27 05:47:05けれども一方で、技法や療法の次元と、学問的・理論的言説の整合性の次元との間の緊張関係が、所謂現代思想の主要テーマだったこともまた確かデス。アドルノであれば、両者の緊張関係を言い表すために、好んで(理論的な)逆説やパラドックスに訴えかけただろうし、(続)
2012-11-27 05:57:50(承前)エクリチュール・フェミナンなら、理論的言説の整合性(なるもの)を何とか撹乱しようと精を出してたし、そしてガタりは、臨床の現場で得た知見や感触を確信犯的に無縁慮かつ唐突に、理論的言説の中に新しい概念として持ち込んでいたということになるのでしょうか。
2012-11-27 06:05:30とは言っても他方で、逆説やパラドックスに訴えかけるというのは、逆に理論的言説の整合性、完結性をあくまで尊重してることになるし、またそれを撹乱しようと試みることは、撹乱する側とされる側との分離をいつまでも温存させることにもなってしまう。
2012-11-27 06:18:27そして臨床上の知見を唐突に新概念に昇格させて理論の中に持ち込むということは、技法や療法を定式化するという努力と、理論を彫琢するという努力との間の(或る意味で幸福な)平行関係を当然想定している筈デス。
2012-11-27 06:32:10ところが上山氏の場合は、更にここに身体症状の不可避性という極めて個人的モチーフが関わってくるから、逆説に訴えることも、撹乱を試みることも、また技法の定式化と理論の彫琢との平行関係の中で、概念を臨床現場から調達することとも異なった、別の道を模索せざるを得なくなるのではないでしょうか
2012-11-27 06:42:25だからこそ、http://t.co/nWcD7Sklで言われてる「体験した生成の必然性に賭ける」ということと、理論や技法とが一致するというか、統合されるするような境地を求めざるを得なくなるんでしょうネ。
2012-11-27 06:55:20(ここからは自己突っ込み)あのさー、オマエ他人のことエラソーに評論してるけど、テメーのことはどうしたんだヨ、自分のことは棚上げにしたままなのか。いやあの、学問研究の現場とは相当趣の異なる、思想が立ち上がる際の困難さの現場をライブで味わうことができたので、より深く味わおうと思って…
2012-11-27 07:09:04実は自分は余り日本思想の方はよく知らないいんですが、個人的なモチーフにこだわると言えば、確か西田幾多郎が「悲哀」という自らのそうしたモチーフに大変自覚的で、絶対無の自己限定という彼の根本的な発想(というかコンセプト)と、このモチーフとの深い関わりを自己解説(解釈)してたとか。
2012-11-27 07:12:50