- contractio
- 2531
- 0
- 1
- 2
イクニ信者の人が纏めておいてくれたのか。それにしても、後半に出てくるラボルド精神病院の技法の特徴の話は、自分としてはとても判り易かったのだが、日曜ルーマンの人はそこで躓いてしまったのか。@gauqui さんの「メモ」をお気に入りにしました http://t.co/ncWU1aBA
2012-11-24 01:47:48多分自分としては、竹内敏晴のボディワークや、A・ミンデルのプロセス・ワークとのそれこそ「連想」で、ラボルド精神病院の技法の話を受け取っていたからだろうナ。
2012-11-24 01:50:52この種の集団的なボディ・ワークでは、互いの身体の硬直や表情の硬さを指摘し合い、それらをボディ・タッチしながらほぐしていき、更にその過程で不可避的に生じてくる反応のこわばりや拒絶にも徹底的に突っ込みを入れ合って、双方ともぐにゃぐにゃの泣き笑い状態になっていくのが普通だからナ。
2012-11-24 02:35:35うーん、しかしボディ・ワークとの連想だと、それこそその場での身体的接触という、余りにもベタな「直接性」に全てが回収されてしまうので、「分業」などの、制度というものが本質的に持っている様々な間接性・隔時性が射程に入れられなくなってしまうナ・・
2012-11-24 02:36:05特定の語りのスタイルの選択を暗点化して、自由に語っているつもりでも実は硬直している。そうした状態に陥らずにスタイルの選択を常に意識化し選択し直しながら、同時に何かについて語っていくというあり方って、自分にとっては、この身体がぐにょぐにょになって笑いこけるというイメージなんですよネ
2012-11-24 02:36:38ちょっと時間が出来たので、上山氏と日曜ルーマンの人との、最近の一連の緊迫したやりとりを斜め読みしてたんだけど、そこで身体的情動に関わる印象的なモチーフが色々と提出されてたので、それに対するこちらの印象を少し。
2012-11-24 02:39:16上山氏は、自分にとって思考とは下痢のように不可避なものであり、また制度分析とは怒りそのものだ、こうした身体症状としての思考を方法的に彫琢していきたいというようなことを言ってましたが、自分としてはこの下痢と怒りの併置に戸惑ってしまいました。
2012-11-24 02:54:10自分の身体的実感では、どうもこの二つは結びつきようがなかったからデス。上山氏の更なる自己分析によると、両者の間に更に不信という情動が差し挟まれるようで、どうやら下痢・不信・怒りという情動の連鎖が形成されてるようデス。
2012-11-24 03:05:33ここで問題になるのは、下痢という初発の反応で、これは、世界に対する拒絶と、世界に対する働きかけとが、反応の不可避性というあり方によって表裏一体となっているような気がしマス。このうちの拒絶の契機が不信に、働きかけの契機が怒りにそれぞれなるのでしょうか。
2012-11-24 03:10:53こうした、下痢という反応の不可避性の運動に駆動された思考は、特定のスタイルの選択を暗点化させることによって硬直した思考に、どのように介入/干渉していくことができるのでしょうか。
2012-11-24 03:26:52また自分としては、反応の〈不可避性〉というこの独特の運動というか時間性と、適切な介入/干渉の結果制度の側に実現する筈の、スタイルの選択を常に意識化して選択し直すことができるようになった〈柔軟性/可塑性〉という存在様態との関係も大変気になりマス(凄く現象学的発想ですが)。
2012-11-24 03:31:53自由にやり方を模索しているつもりが、実は暗黙のうちに既に特定のやりかたを〈やってしまって〉いて、それを知らずうちに周り押しつけている。こうしたあり方に対して、不信や怒りをぶつけ〈ざるを得ない〉という不可避性の運動がどう関われば、(続)
2012-11-24 03:36:26今までのやり方が硬化していることに〈すぐに気づき〉、しかもその場で新たに〈やり直し〉ていくことができるような柔軟性/可塑性が実現していくことができるのでしょうか。
2012-11-24 03:42:12やはりここでは、思わず〈せざるを得ない〉、暗黙のうちに〈やってしまっている〉、その都度新たに〈やり直していく〉という、生の3つの存在様態が相互にどう関わっていくかということが問題になっていくんでしょうネ(これまた現象学的に言えば)。
2012-11-24 03:56:07あと自分としては、硬直や空転というあり方に対しては、上山氏とはかなり異なる(拘っている対象が全く違うからそれは当然なのですが)関わり方を何となく考えているんですが、それを本当はキチンと言っていかなければならないのですが、色々とツラくてシンドくて・・(アカン)
2012-11-24 03:56:28「日曜ルーマン」という呼び方は初めてききました。 http://t.co/1FqptCNO 私は「ラボルド精神病院の技法の特徴の話」のところで躓いたわけではないと思うんですが...
2012-11-24 10:06:38@ashibumi68 コメントありがとうございます。竹内敏晴さんは、ラボルドの文脈と人的に交流が始まっていたのですが、その矢先に、突然亡くなってしまわれました。(しばらく本気で落ち込んだ…) ▼ラボルド研究をされている三脇氏の文章: http://t.co/aV5tU6VJ
2012-11-24 11:09:52@ashibumi68 ここでいただいたご指摘は、とても鋭くて、私が取り組んでいる困難と、(少なくとも部分的には)重なると思います。
2012-11-24 11:12:06以下、 http://t.co/LXidlroA このまとめで頂いたご指摘、とりわけ http://t.co/GBeuA8m4 こちらに、今できるお返事を試みます。(まとめてくださった酒井さん、ありがとうございます)
2012-11-24 11:18:09焦点は、 《分析そのものが、身体症状のように不可避に分節されてしまう》――そういうものの発生を尊重し、共有できるようになると、下痢や攻撃性のような、稚拙な直接性に固まる必要がなくなる――そのあたりだと思います。
2012-11-24 11:18:49分析や観察をするときに、対象(オブジェクト)があって、観察側(メタ)があるのではなくて、観察側の分析そのものが、いろんな葛藤に巻き込まれた身体症状(オブジェクト)として、「生成≒分節」される。分析側も、対象世界の部分として生成することになります。
2012-11-24 11:19:59これは、たんに「観察する側/される側」の二元論ではないし、かといって、単なる一元論でもない。身体的に生成する分析は、場合によっては「単なるメタ」以上にメタな理解にとどくし、また別の瞬間には、たんなる現場以上に、細やかなディテールに寄り添う――うまくいけば、そうなるはずです。
2012-11-24 11:26:11私は、そういう分析をやりながらしか、あるいはそういう分析の出来るかたとご一緒する中でしか、「息ができない」ところがあります。(それは体感としては、被災直後の、ライフラインの壊れた感覚に近づきます。 http://t.co/n5IJyYXA )
2012-11-24 11:29:43