上山・酒井問答3に対するつぶやき

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上山和樹 @ueyamakzk

ところが @ashibumi68 さんが懸念されるように、こうした分析は、ひとまず内在的に、「内側から」生きるしかありません。そうすると、どの瞬間にどういう盲点に気づけばいいのか、あるいは気づいても、恣意的かもしれません。また集団内部では、お互いに優先順位が食い違うでしょう。

2012-11-24 11:33:21
上山和樹 @ueyamakzk

そしてかといって、生身である以上、「単なるメタ」になど、絶対に立てません。どんなに理論的に武装しても、生身でしかありませんから。観察目線じたいが、一定の緊張に巻き込まれた、恣意的で盲点にあふれたフレームを、反復しているはずです。

2012-11-24 11:38:29
上山和樹 @ueyamakzk

そうすると、単に「外側から」をやれない、つまり (a)タイミングについても、(b)意味内容についても、 「この瞬間の客観的な必然性」を言うことができない場所で、内側から、体験した生成の必然性に賭けるしかない――そういう話になります。

2012-11-24 11:46:26
上山和樹 @ueyamakzk

「底が抜けている」、「やり直してみるしかない」、「死と隣り合わせ」――そういう逃げられない危うさをなかったことにして、あれこれ快調に語り始めたとき、不当なメタへの居直りが、起こっているんではないか。

2012-11-24 12:08:55
上山和樹 @ueyamakzk

その「快調すぎる語り」の典型が、「名詞形に還元して語る」というやりくちです(差別や、一部の学問言説など)。 http://t.co/PJ4lDJvH 動詞としての相手を、名詞のフレームに囲い込んで、あとはこの名詞フレームについて、議論を重ねるだけになる。

2012-11-24 12:10:38
上山和樹 @ueyamakzk

ここまでの話をまとめますと、大きく語りに二つの極があって、 (1)名詞形で自他を切断するゆえに、議論の継続的修正はやりやすいが、《距離》を嘘のアリバイにするゆえに、新しい分析の生成は抑圧してしまう――そういう語りと、

2012-11-24 12:13:28
上山和樹 @ueyamakzk

(2)自分のことも相手のことも、動詞的生成として尊重し、検証するが、《内在的生成》の確信に満ちるゆえに、詩的な独り善がりになりがちだし、修正もしにくい、合意形成も難しい――という語りと。 ▼この(1)(2)の間で、ジレンマに陥るというか。

2012-11-24 12:15:07
上山和樹 @ueyamakzk

いちおう大まかには、 (1)が社会学や分析哲学系で、 (2)が20世紀フランス思想系になるのかもしれませんが、 ▼現実には20世紀フランス思想の文脈も、人を平気で名詞化しますので、むしろ《名詞か動詞か》の論点で、シャッフルして読み直す必要がありそうです。

2012-11-24 12:27:45
上山和樹 @ueyamakzk

実務的には、(1)と(2)を適宜往復するしかないと思いますが、もうすこし技法や制度として、洗練できないだろうか――今はそのあたりで、整理を試みています。

2012-11-24 12:28:10

上山和樹 @ueyamakzk

@ashibumi68 コメントありがとうございます。竹内敏晴さんは、ラボルドの文脈と人的に交流が始まっていたのですが、その矢先に、突然亡くなってしまわれました。(しばらく本気で落ち込んだ…) ▼ラボルド研究をされている三脇氏の文章: http://t.co/aV5tU6VJ

2012-11-24 11:09:52
上山和樹 @ueyamakzk

@ashibumi68 「声を治す」といった竹内氏の発想は、たしかにモチーフとして、重なっていると感じます。

2012-11-24 11:10:13
上山和樹 @ueyamakzk

@ashibumi68 ここでいただいたご指摘は、とても鋭くて、私が取り組んでいる困難と、(少なくとも部分的には)重なると思います。

2012-11-24 11:12:06
上山和樹 @ueyamakzk

以下、 http://t.co/LXidlroA このまとめで頂いたご指摘、とりわけ http://t.co/GBeuA8m4 こちらに、今できるお返事を試みます。(まとめてくださった酒井さん、ありがとうございます)

2012-11-24 11:18:09
上山和樹 @ueyamakzk

焦点は、 《分析そのものが、身体症状のように不可避に分節されてしまう》――そういうものの発生を尊重し、共有できるようになると、下痢や攻撃性のような、稚拙な直接性に固まる必要がなくなる――そのあたりだと思います。

2012-11-24 11:18:49
上山和樹 @ueyamakzk

分析や観察をするときに、対象(オブジェクト)があって、観察側(メタ)があるのではなくて、観察側の分析そのものが、いろんな葛藤に巻き込まれた身体症状(オブジェクト)として、「生成≒分節」される。分析側も、対象世界の部分として生成することになります。

2012-11-24 11:19:59
上山和樹 @ueyamakzk

これは、たんに「観察する側/される側」の二元論ではないし、かといって、単なる一元論でもない。身体的に生成する分析は、場合によっては「単なるメタ」以上にメタな理解にとどくし、また別の瞬間には、たんなる現場以上に、細やかなディテールに寄り添う――うまくいけば、そうなるはずです。

2012-11-24 11:26:11
上山和樹 @ueyamakzk

私は、そういう分析をやりながらしか、あるいはそういう分析の出来るかたとご一緒する中でしか、「息ができない」ところがあります。(それは体感としては、被災直後の、ライフラインの壊れた感覚に近づきます。 http://t.co/n5IJyYXA

2012-11-24 11:29:43
上山和樹 @ueyamakzk

ところが @ashibumi68 さんが懸念されるように、こうした分析は、ひとまず内在的に、「内側から」生きるしかありません。そうすると、どの瞬間にどういう盲点に気づけばいいのか、あるいは気づいても、恣意的かもしれません。また集団内部では、お互いに優先順位が食い違うでしょう。

2012-11-24 11:33:21
上山和樹 @ueyamakzk

そしてかといって、生身である以上、「単なるメタ」になど、絶対に立てません。どんなに理論的に武装しても、生身でしかありませんから。観察目線じたいが、一定の緊張に巻き込まれた、恣意的で盲点にあふれたフレームを、反復しているはずです。

2012-11-24 11:38:29
上山和樹 @ueyamakzk

そうすると、単に「外側から」をやれない、つまり (a)タイミングについても、(b)意味内容についても、 「この瞬間の客観的な必然性」を言うことができない場所で、内側から、体験した生成の必然性に賭けるしかない――そういう話になります。

2012-11-24 11:46:26
上山和樹 @ueyamakzk

「底が抜けている」、「やり直してみるしかない」、「死と隣り合わせ」――そういう逃げられない危うさをなかったことにして、あれこれ快調に語り始めたとき、不当なメタへの居直りが、起こっているんではないか。

2012-11-24 12:08:55
上山和樹 @ueyamakzk

その「快調すぎる語り」の典型が、「名詞形に還元して語る」というやりくちです(差別や、一部の学問言説など)。 http://t.co/PJ4lDJvH 動詞としての相手を、名詞のフレームに囲い込んで、あとはこの名詞フレームについて、議論を重ねるだけになる。

2012-11-24 12:10:38
上山和樹 @ueyamakzk

ここまでの話をまとめますと、大きく語りに二つの極があって、 (1)名詞形で自他を切断するゆえに、議論の継続的修正はやりやすいが、《距離》を嘘のアリバイにするゆえに、新しい分析の生成は抑圧してしまう――そういう語りと、

2012-11-24 12:13:28
上山和樹 @ueyamakzk

(2)自分のことも相手のことも、動詞的生成として尊重し、検証するが、《内在的生成》の確信に満ちるゆえに、詩的な独り善がりになりがちだし、修正もしにくい、合意形成も難しい――という語りと。 ▼この(1)(2)の間で、ジレンマに陥るというか。

2012-11-24 12:15:07