上山「軽率な診断発言について」を巡って:20121121-20121124
- contractio
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@contractio 「どう頑張っても晒されている」ことと、「どう頑張っても100%のアリバイはない」ことは、どうも同じことのように思えているのですね。だからこそ、どんなにアリバイを持って「ディシプリン通りに」やったところで、検証すべき余地は残ってしまう。
2012-11-22 10:07:29@contractio その検証が生成してしまうことを、抑圧したくない。それを抑圧するとは、《晒されてある》という事実性そのものを、なかったことにすることだから。(昨日のお話で、「閉じられた厳密性に満足できない」というのが、ここに関わります)
2012-11-22 10:10:00@contractio やってしまったことについての検証は、体験「について」論じていると同時に、その検証の生成そのものは、体験それ自体を「直接的に」生きることになっている。
2012-11-22 10:11:01@contractio いわば、現象経験の外傷性に折り合うような、それを誤魔化さないスタイルや技法を探しているのですが、――そのモチーフそのものが、なかなか共有いただけないか、あるいは各人で、この同じモチーフに出している答え(としてのスタイル)が、違うのかもしれません。
2012-11-22 10:13:41@contractio 昨日のすれ違いについて、少しでもヒントになるかと思い、書いてみました。意味が分からなかったら申し訳ありません。(長々と失礼しました)
2012-11-22 10:14:50阪大での向谷地生良氏(べてるの家)の講演、行ってきました。 http://t.co/wj2vhTKw 今日はいろいろな気づきがあって、行ってよかった。関係者の皆様、感謝です。
2012-11-22 23:43:56@kumatarouguma こちらこそ、今日はありがとうございました。またぜひ、ご一緒させてください。どうか、お疲れの出ませんよう。
2012-11-22 23:58:30名詞形の「当事者」というと、大まかに3つの意味あいを混ぜながら、いつの間にか使い分けている。 (1)病気・被害・弱者性などに苦しんむご本人、 (2)結果を変えられる責任の所在、 (3)ステークホルダー(利害関係者)。 【質問では「2つ」と言ったが、(3)を忘れていた。】
2012-11-23 00:30:30福祉の現場で「このかたは当事者さんです」というと(1)だけど、 紛争の場で「おい、当事者意識を持てよ!」というと(2)だ。 政治的な折衝の場で「あいつは当事者だから入れるな」と言ったら、(3)。
2012-11-23 00:31:05たとえば私が当事者論で大事だと思うのは、松嶋健氏が言った次のようなモチーフ。これは本当に、これから何度でも引用したい。 〔つづく〕
2012-11-23 00:31:54松嶋健: 「いかに客観的にみえるものであっても、そこに自己分析が入っているものがあるし、逆にいかに自分について語っているセルフドキュメンタリーであっても、自己分析がまったく入ってないものがある」 http://t.co/IQPnGXcC
2012-11-23 00:32:23「自分の話をする」というのは、べつに自分の個人史を語ればいいわけではなくて、むしろいちばん問われるのは、《論じかた》の部分。名詞形の「当事者」に終始すると、動詞部分での試行錯誤が痩せてしまう。
2012-11-23 00:44:31「自分の話をする」というのは、そこで本当に意義が問われるべきなのは、《動詞のスタイル》だと思うんですね。当事者研究と言われているもので、それは動詞としては、何をすることになっているか。あるいは(自分が病気や被害者でなくても)、私たちは動詞として、何をしてしまっているか。
2012-11-23 00:47:59たとえば、自分の名前やいきさつを直接は話していないのに、「自分の置かれた状況や、自分の語っている議論のやりくち」を分析した言説というのは、あり得ると思う。
2012-11-23 00:49:58今日の講演会であらためて痛感したけど、「べてるの家」の活動の大きな部分を占めるのは、語用論的な提案にある。たとえば「幻聴」を「幻聴さん」と言い換えるだけで、単語が呼び寄せる言説の傾向、言葉の趣旨などが変わってしまう。
2012-11-23 01:10:58「理論を知らなくても変わってしまう」というのが重要。面白がって「幻聴さん」と言い始めると、変化が起こる。(「べてるの家」の評価にはもっとディテールが必要だけれど、変わるための活動として、「ことばの工夫」が重要なのだ)
2012-11-23 01:13:31ブログ 《自分のやっていることへの距離 》 http://t.co/OILukiZJ 昨日の向谷地生良氏(べてるの家)の講演会をめぐって。これは私としては、どうしてもせざるを得なくなっている話です。
2012-11-23 09:36:43論文: 嶋田久美 《「装置」としての表現活動 : ラ・ボルド病院、べてるの家を例として》 http://t.co/1XXs8518 ▼昨日の向谷地生良さん(べてるの家)の講演会で、特定質問者をされた方の論考です(英語による抄録)。
2012-11-23 20:57:32昨日紹介された事例。 http://t.co/Ve4iz1JP 統合失調症の結果として、自分の頭を叩き続ける「バッティング」をやめられない人がいたが、仲間が試みに「体をくすぐった」ところ、おさまった。それまでは、叩き始めるとすぐに物凄い多剤投与(薬や注射)だったらしい。
2012-11-23 23:05:18緊張や人間関係、身体感などで一時的に生じるらしいバッティング(自分の頭を叩くこと)を、薬と注射で治そうとする――「異常な観察対象」に対して、「理論的認識」が薬を投与する。▼もちろん薬が有益な場合はあるが、理論言語と「観察対象」の乖離は、臨床技法を硬直させる。
2012-11-23 23:17:45理論と「対象」の関係をめぐる設計は、すでに明白に、技法論に介入している。(「距離をとればいい」と言った時点で、設計は終わっている)
2012-11-23 23:20:38