黒田官兵衛のおおまかなお話

生誕466年に
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黒田☆如水 @josui_

官兵衛は有岡城の落城と共に救出される事になる。実に1年にもわたる幽閉期間だった。 これにより官兵衛は片足を十分に曲げられなくなり、皮膚病にかかり、肉も落ちた。 変わり果てた官兵衛の姿を見た秀吉は号泣したという。#官兵衛誕2012

2012-11-29 14:00:44
黒田☆如水 @josui_

開放された官兵衛は驚いた。なんと殺されたとばかり思っていた松寿丸が生きていたのである。 確かに信長は官兵衛が寝返ったと思い、松寿丸の首を刎ねるように命じた。 しかし竹中半兵衛、彼が自らの居城にこっそりと匿っていたのだ。#官兵衛誕2012

2012-11-29 14:01:28
黒田☆如水 @josui_

官兵衛「半兵衛殿は一族の恩人だ…!して、半兵衛殿は今どちらに?」 秀吉「小官、お主、知らされていないのか…。」 竹中半兵衛は官兵衛が牢より開放されるより前に病没していた。 官兵衛は半兵衛より遺品として采配を譲り受け、両家の交流は後の代まで続く。#官兵衛誕2012

2012-11-29 14:02:47
黒田☆如水 @josui_

有馬温泉にて幽閉の傷を癒した官兵衛は、性を小寺から黒田に改め、秀吉に従軍していく。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:52:26
黒田☆如水 @josui_

1581年、鳥取城攻略、かつえ殺しと呼ばれる兵糧作戦は官兵衛が秀吉に進言したものだったと言われる。 1582年、備中高松城攻略においては巨大な堤防を築き、水攻めを見事に成功させる。また降伏交渉にも尽力した。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:52:39
黒田☆如水 @josui_

その高松城攻めの陣中にとんでもない報せが届く。信長が本能寺にて謀反にあい、自刀したという。 高松城もそろそろ落としかけているという時に入ってきた悲報に、秀吉はただただ狼狽えた。 だが、これを悲報であると思わない者がいた。官兵衛だ。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:53:30
黒田☆如水 @josui_

官兵衛は狼狽する秀吉に 「ご運が開ける時が、今来ました。今すぐ兵を返しましょう」 と、今すぐに兵を返して光秀との決戦に挑むようにと勧めた。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:53:47
黒田☆如水 @josui_

これにより気を取り直した秀吉は高松城城主、清水宇治との交渉を進め宇治を切腹させると、急遽上方へと兵を返した。「中国大返し」である。 秀吉が予想以上に早く反撃できたのは、官兵衛が1日早く飛脚を使わせて、兵士達の食料を調達させたためだと言われる。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:54:04
黒田☆如水 @josui_

6月13日、秀吉は天王山・山崎の合戦で光秀を討ち取り、ここに天下の覇者たる礎石を敷いた。 また、この頃官兵衛は高山右近らの勧めによって洗礼を受けている。洗礼名は「ドン・シメオン」更に次男の熊之助も誕生している。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:54:15
黒田☆如水 @josui_

1585年、四国征伐九州征伐等、数々の戦で功績を上げ、従五位下・勘解由次官に叙任。 豊前国(現在の大分県)およそ12万石を与えられ、中津城の築城を開始する。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:54:24
黒田☆如水 @josui_

1589年には家督を嫡男、長政に譲り、「如水」と号して隠居の身となるが、秀吉の側近として使え、1590年の小田原征伐では無血開城させる功績を立てた。この際北条氏直から名刀「日光一文字」日本三陣具の1つ「北条の白貝」等の家宝を与えられている。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:54:33
黒田☆如水 @josui_

1592年、朝鮮の役に参加。しかし石田三成との不仲により秀吉の怒りを買ってしまい、出家するに至る。 こんな話が有る。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:54:51
黒田☆如水 @josui_

官兵衛は元々石田三成という人物をあまり好いてはいなかった。 文禄の役には戦の相談役として渡海し、三成と対面をする約束をしていたが、官兵衛はその約束を無視し、浅野長政との囲碁に没頭したという。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:55:03
黒田☆如水 @josui_

怒った三成は秀吉に報告。更に官兵衛は自棄になり無断で帰国してしまうものだからこれには秀吉も大激怒してしまう。 官兵衛は焦り、切腹覚悟で剃髪し、遺書まで書いたが息子の長政の活躍や、その時期に秀頼が生まれた事もあり、なんとかうやむやになった。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:55:11
黒田☆如水 @josui_

ちなみに官兵衛はこの時期に次男の熊之助を亡くしている。朝鮮へ行った官兵衛と長政を追って船を出したが、玄界灘付近で難破してしまい、そのまま行方知れずになってしまった。#官兵衛誕2012

2012-11-29 16:57:09
黒田☆如水 @josui_

1598年秀吉が死去。 その後石田三成ら西軍が挙兵し、家康率いる東軍との対立に及ぶと中津に居た官兵衛は東軍として行動するようになる。#官兵衛誕2012

2012-11-29 17:17:24
黒田☆如水 @josui_

1600年、官兵衛はすぐさま中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9000人程の軍を作り上げる。#官兵衛誕2012

2012-11-29 17:17:39
黒田☆如水 @josui_

9月13日、石垣原(現在の別府)大友義統軍と衝突、勝利、その後も西軍に属した城を落として行く。 しかし関ヶ原の戦いが1日で終わったため、官兵衛も停戦命令に従い軍を解くことになる。#官兵衛誕2012

2012-11-29 17:18:13
黒田☆如水 @josui_

この官兵衛の挙兵の件、様々な書物で「実は疲弊した関ヶ原の部隊を(西軍東軍限らず)倒し、己が天下をとってやろうという腹づもりだったのではないか?」と言われているが真実かどうか定かではない。#官兵衛誕2012

2012-11-29 17:18:39
黒田☆如水 @josui_

ただ、信長、秀吉に仕えていた官兵衛が最後の最後に己のために力を奮ったのではないかと想像すると、胸に去来するものがある。それが実現可能な策であったかどうかは別として。 #官兵衛誕2012

2012-11-29 17:19:01
黒田☆如水 @josui_

晩年筑前(現在の福岡)で隠居生活晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。(福岡で没したという説もある)また葬儀の方法や埋葬先も諸説ある。#官兵衛誕2012

2012-11-29 17:19:28
黒田☆如水 @josui_

辞世の句は「おもいおく 言の葉なくて ついに行く 道は迷わじ なるにまかせて」#官兵衛誕2012

2012-11-29 17:19:59
黒田☆如水 @josui_

臨終を前に、家臣の栗山利安にこのように語っている「今一度この具足で一戦を、と思っていたがもう仕方のないことだ。しかし、我が家が繁栄できたのはこの甲冑のお陰である」官兵衛の使用していた赤合子兜は利安に譲られ、後に「黒田騒動」に出てくるが…それはまた別の話 #官兵衛誕2012

2012-11-29 17:23:44
黒田☆如水 @josui_

(最後の方、駆け足になってしまって申し訳ありません。半兵衛以外にも色々と面白い交友関係があって紹介したかったのですが、それはまた別の機械にということで…。個人的に毛利家の人々との交遊話がとても好きです)

2012-11-29 17:25:44