実践的提言と原理論、そして本格推理小説の定義について

本格推理小説の議論における「実践的提言と原理論の混同」の問題を取り上げた、巽昌章さんの考察をまとめました。いわゆる「本格ミステリの定義」についても語っておられます。
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巽昌章 @kumonoaruji

本格推理小説をめぐる議論を重苦しくする要因のひとつに、実践的提言と原理論の混同、あるいはその区別の困難があるのではないか。「こんなふうに読むと面白い」「ここを工夫すると面白く書ける」といった実践的提言として述べればすむことを、これこそ本格のあるべき姿だといった原理論にしてしまう。

2013-02-28 18:09:52
巽昌章 @kumonoaruji

受け止める側に問題のあることもある。実践的提言として受け止めればよい発言を、原理論的な意見とみなし「自分の考えに合わない」と反発する、「Aという手法は面白い」という提言に、「Aという手法だけが面白いというのはおかしい」「ミステリがAばかりになったらどうする」と反発するなど。

2013-02-28 18:18:04
巽昌章 @kumonoaruji

その最たるものが都筑道夫の「トリック無用論」だろう。実践的提言としては、奇妙な状況を作り上げてその理由を「論理のアクロバット」で説明すれば面白いというのはもっともだし、陳腐で必然性のないトリックにこだわっていてはいけないというのももっともだ。

2013-02-28 18:21:43
巽昌章 @kumonoaruji

しかし、そんな受け止め方ばかりではなかった。最近では、飯城勇三氏の「意外な推理」をめぐる議論もそうだろう。国名シリーズ時代のクイーンの魅力が、まさかと思うような手がかりからひねりの効いた論理を引き出す手際にあることは、クイーンファンとして賛成だが、それをどこまで一般化できるのか。

2013-02-28 18:27:30
巽昌章 @kumonoaruji

実践的提言は、無理に理論武装せず、気楽に発言したらよい。そして、実践的提言としてする場合の「Aという手法は面白い」という発言には、する側も受け止める側も、「A以外はつまらない」という含みをもたせないことだ。

2013-02-28 18:31:11
巽昌章 @kumonoaruji

逆にいえば、それではすまない問題を見つけてしまった場合には、理論の領域に踏み込む覚悟をすることである。

2013-02-28 18:31:57
巽昌章 @kumonoaruji

ちなみに、京大ミステリ研では創立当初から犯人当てが盛んに書かれていたが、私が入部した時期(創部から1年何か月だろう)、すでに手がかりの陳腐化という問題が議論されていた。

2013-02-28 18:38:28
巽昌章 @kumonoaruji

しばらく犯人当てをやっていると、「傷が右半身にあるから左利きのやつが犯人」といったふうに、手がかりの定番ができ、手がかりの解釈もパターン化してしまう。飯城氏は、トリックがデータベース化されることを批判していたが、マニアにとっては手掛かりや推理法もデータベース化できてしまうのだ。

2013-02-28 18:41:37
巽昌章 @kumonoaruji

犯人を見破られないように多くの手がかりを組み合せる推理法をとると、陳腐な手がかりが量的に増えてゆくだけという不毛な結果になりかねない。京大ミステリ研の大半はクイーンファンだったから、そこで、やっぱりクイーンは偉いよな、という嘆息になる。

2013-02-28 18:45:05
巽昌章 @kumonoaruji

そこから先は、個々の考え方と努力に、つまり、それこそ実践にゆだねざるをえない部分になってしまう。

2013-02-28 18:49:21
巽昌章 @kumonoaruji

と、いうふうに実践と理論をすっきり分割できればいいのだが、実際にはなかなかうまくいかないところがある。不必要に理論を振り回すのは駄目だとしても、やはりいやでも原理に思いをはせてしまう。実践と理論をスカッと割り切ろうとするのが実践、その割り切れなさに悩むのが理論というわけだ。

2013-02-28 19:00:35
巽昌章 @kumonoaruji

昨日は理論と実践が区分できるかのように書いたが、やはり、理論的な問題は随処に顔を出し、そうそう割り切れないし、私自身は割り切れないタイプである。断わっておくと、理論・原理とは、決して、本格推理小説に確固たる本質があるとか、連綿たる伝統があるといったことを前提とするものではない。

2013-03-01 13:02:16
巽昌章 @kumonoaruji

それは、いわば推理小説という存在に対する懐疑から生まれる。歴史についていえば、私は、本格推理小説の歴史は「伝言ゲーム」(千街氏)モデルで考えるべきだと思っているが、その伝言がどのようにして成立し、どこが維持され、どこが変容したかといったことを考えるのは、まさに「理論」である。

2013-03-01 13:05:28
巽昌章 @kumonoaruji

島田さんが先日、「モルグ街の殺人」をホワットダニットの例にあげた。これは、「現場は施錠されている。どうやって出入りしたか」という紋切り型の密室を、より魅力的な謎へと再生させる実践的提言として読むことができるが、同時に、そもそも「密室」とは何か?という懐疑を呼び覚ますものでもある。

2013-03-01 13:09:30
巽昌章 @kumonoaruji

乱歩の類別トリック集成など密室トリックの研究は、おおむね、トリックの前提となる「密室」そのものについては自明の存在とみなしてきた。あるいは、密室は密閉されたかのように見える空間であるといったふうに、小説の叙述過程を捨象して、それを現実の空間になぞらえて定義してきた。

2013-03-01 13:12:27
巽昌章 @kumonoaruji

しかし、小説を読む者の前にそれがどのように立ち現れるか、という、いってみれば密室の現象学の必要性を、島田発言は四察しているともいえるのだ。

2013-03-01 13:13:33
巽昌章 @kumonoaruji

示唆している、の間違いでした。

2013-03-01 13:14:16
巽昌章 @kumonoaruji

二階堂黎人氏が「自分の本格の定義では『容疑者Xの献身』は本格ではない」と主張したとき、私が一番奇異に思ったのは、「プロなら本格の定義ができて当たり前」という意見がネットで散見されたことだった。

2013-03-01 20:13:15
巽昌章 @kumonoaruji

ずぶの素人さんだけでなく、別分野の小説研究家にさえ「ミステリ評論家は本格の定義できないの?」などと言う人がいて、頭を抱えたくなった。問題は、できるできないではなく、定義することの意味なのだから。この問題について一番まっとうな意見は、ミステリマガジンでの杉江松恋さんのものだった。

2013-03-01 20:15:55
巽昌章 @kumonoaruji

定義とは、個々の議論や文章の目的に応じてなされる機能的なもので、目的が違えば定義も違ってくる。杉江説の大意はそうだったと思う。たとえば、論文の冒頭で「本論文で「本格」とはこれこれの意味である」とあれば、それは、論文内部において議論を展開する目的上なされた定義にすぎない。

2013-03-01 20:22:37
巽昌章 @kumonoaruji

実際、民法学者と刑法学者で「人」の定義が異なるというのは有名な話である。行政関係の法規では、たいてい、冒頭に「道路」とは何か、「建築物」とは何かといった細かな定義がなされるが、それも、個々の法規の目的にそってなされた、その法規内部に限って有効な定義にすぎない。

2013-03-01 20:26:17
巽昌章 @kumonoaruji

ところで、定義とは、ふつう簡略な表現をとるものである。ボルヘスの地図作りの寓話のように、本当に推理小説の歴史を踏まえて厳密な定義を作ろうとすれば、それは推理小説の歴史と同じサイズにならざるをえないが、誰もそんなことはしない。

2013-03-01 20:32:12
巽昌章 @kumonoaruji

むろん、私にだって推理小説の定義くらいはできる。それは、私自身の知識と問題意識に基づいて、推理小説のあり方を要約したものであるが、誰がやってもその点は同じはずだ。つまり、推理小説なら推理小説の定義とは、個々の論者の推理小説観を要約したものである。

2013-03-01 20:36:29
巽昌章 @kumonoaruji

したがって、「本格の定義はこれこれ。Aという作品はこれに当てはまらないから本格ではない」という意見は、「自分の本格観はこれこれ。それによればAは本格ではない」と言っているのと同じで、ことさら「定義」を持ち出す必要はない。

2013-03-01 20:40:32
巽昌章 @kumonoaruji

プロの作家、評論家の議論を観戦する読者が、その人たちの本格に対する考えを知りたいと思うのは無理もないが、その人たちの「定義」に期待をもつのは不毛である。本格とは何かを議論し合うとしても、その議論の中で「定義」が占める意義なんてのは、せいぜい旗色を分かりやすくする程度のものなのだ。

2013-03-01 20:43:40