緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃

病気による痛みや辛さをやわらげる「緩和ケア」が、適切になされていない例について、それは差別ではないのか?なぜそのような差別的扱いが生じるのか?を、立岩真也「なんのための「緩和」?」と、spitzibara氏のお子さんが、手術後に不適切な扱いをされた経験の話から始まるやり取り。 これらの問題を考え、反撃するのに、 ① 差別の問題、② 人をモノとして扱うこと、③ 言葉による概念化で、連続した事象の分断、④ 能力主義や権威への服従、について。 また、整合性を求める分析的な言説である「高踏理論(ハイ・セオリー)」に対抗する「低理論(ロー・セオリー)」と、ロー・セオリー的な視点や考え方の人の事例、などについて。 まとめ『「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か?』に引き続き、 続きを読む
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■本まとめに先行するまとめ:

●『「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か?』http://togetter.com/li/485122
 

まとめ 「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か? 癌とかアルツハイマー病になったら即、『終末期』だというイメージが先行して、 「どうせもうすぐ死ぬのだから大したことやんないよ」という対応をしているのではないか? 『終末期』という名付け=ラベリング=レッテル貼りによる、イメージ操作・印象操作によって、普通の医療が受けられなくなっているのでは。 spitzibara氏のブログ記事「2013年3月20日の補遺」のコメント欄でのやり取りをまとめました。 ●追加しました。⇒同ブログの「『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』書評を書きました」のコメント欄でのやり取り。 ■本まとめに続くまとめ: ●『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』http://togetter.com/li/485134 ■関連する記事やまとめ: ●spitzibara.. 4877 pv 8 1 user

 
 
●spitzibara氏のブログ【Ashley事件から生命倫理を考える】:
★「生きたいのにICなしのモルヒネ投与で死んでしまったALSの元外科医」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66205566.html
及び、

●立岩真也「なんのための「緩和」?」http://www.arsvi.com/ts/20100024.htm
は、このまとめの末尾に抄録を掲載しました。
 


リンク Ashley事件から生命倫理を考える 生きたいのにICなしのモルヒネ投与で死んでしまったALSの元外科医(MT州) - Ashley事件から生命倫理を考える - Yahoo!ブログ 09年にターミナルな患者へのPASを禁じた法律は違憲だとの判断が出たモンタナ州の議会には 現在、PASを明確に違法とする法案が提出されていますが、 それを受けて、地元紙に元外科医の妻から投書。 ALSの夫を本人の意思に反するモルヒネ投与で失...
立岩真也 @ShinyaTateiwa

児玉真美 2013/03/26 「生きたいのに勝手なモルヒネ投与で殺されたALSの元外科医(MT州)」→http://t.co/dIvFBkNK8P 関連しなくもない拙稿に「なんのための「緩和」?」http://t.co/sVI2BbYiuZ

2013-03-26 10:15:53

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 ● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り:

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 @hijijikikiの投稿:

こんにちは。@hijijikikiです。

立岩さんがツイッターで、spitzibaraさんのこの記事などを、立岩さんのHPの『安楽死・尊厳死 euthanasia / death with dignity 2013』http://www.arsvi.com/d/et-2013.htmをリンクして紹介してました

更に、『関連しなくもない拙稿に「なんのための「緩和」?」』とツイートされてました。
この立岩さんの「拙稿」が良かったので、一部を以下に引用します。

●立岩真也「なんのための「緩和」?」http://www.arsvi.com/ts/20100024.htmから抜粋

『かつて、たしかに効き目のある精神科の薬剤が入ってきて、‥多くの病院で大量に使われ、そして身体や頭脳の活動のだいぶを鈍麻させ、それでたしかにその人たちはおとなしくなった。』

『それと今、難病の人に与えることが推奨されつつあるらしい薬剤の使用とは違うのだと言われるはずだ。たしかに同じでない。それも認めよう。けれどもまず、その分、周囲が楽になるという事実・事情はやはりある。もちろん楽になること自体がわるいことであるはずはない。

2013/3/26(火) 午後 2:04 [ @hijijikiki ]

(これの続きです)⇒ ●立岩真也「なんのための「緩和」?」から抜粋:

ただ、言うまでもなく、痛みは多くなにかの不具合を示すものでもある★02。例えば体位の微妙なずれによって苦痛が生じるのだが、それは周囲が対応すれば和らげることもできる。それを知って、まずするべきことをした方がその人の身体のため生命のためによい。またそれ以外に、たんに身体的と言えない苦しみがある。そんな場合でも薬剤を使うとよい場合があることはある。ただそれは、ときに、生きようとすることをあきらめてもよいという方向に、というか、そんなことを思ったりすることのない方向に――しかも機器を使い制度を使えば、あと何年も何十年も生きていける状態なのに――働いてしまうことがある★03。それは癌のどうしようもない身体の疼痛を緩和するために薬剤の適切な使用が有効であることとは違う。今進められようとしていることは、もし「緩和ケア」がよいものであるなら、その言葉を誤って使っている。それはよくない。』

2013/3/26(火) 午後 2:05 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

こんにちは。早速にありがとうございます。MLにも流してくださったので、読みに行こうと思いながら出かけて、帰ってきたところです。読む前に趣旨が良く分かります。

その中にある「痛みを知って対応する方が命のためによい」という論理を、ウチの娘の腸ねん転の入院の際には、外科医が手術直後に痛み止めを昼間は一切使わないことの理由にされました。「痛みを止めるのは、命に悪いんじゃぁ!!」と一方的に怒鳴りつけるという「説明」で。本当は「いつ何が起こるか分からない重症児に、余計なことはしたくない」というのが理由だったと思うのですが。

だいたい、家族だけでなく施設の医療職の方々までが「この子にすれば、これは相当な痛みを訴えているんです」と皆が口をそろえても、おなかを15センチも切って翌日から痛み止めを入れてもらえないほどの痛みを「ある」と認めなかったのだから、痛みを緩和しないことで、じゃぁ、どういう痛みを本人や家族がどのように訴えれば「ある」と認識し、対応してくれるつもりだったのか。

2013/3/26(火) 午後 4:43 [ spi*zi*ar* ]

目や音声や全身で痛みを訴えているというのに、ただ「痛い」と言葉で表現することができないというだけで、言葉で「痛い」と言える人なら黙っていても当たり前にしてもらえる基本的な緩和すら、してもらえない。その時に娘が強いられた痛苦と、それを我が身に引き受けながら何日も娘の命を守るために医療職と闘い続けなければならなかった苦しさ、そのさなかにも言葉途中でハエでも追い払うような仕草で会話を一方的に断ち切られて、廊下に置き去りにされた悔しさ。あの時の体験を思い出したら、今でも腹が煮えます。

私は当時、田舎の、競争相手とていない総合病院のことだから、こういうことが起こるのだろうとばかり思っていました。でも、英国や米国の報告書を見ていたら、多くの知的障害者が同じ目に遭い、失わなくてもいい命を落としている。結局は、差別の問題なんだ、と。

2013/3/26(火) 午後 4:57 [ spi*zi*ar* ]

だから、呼吸を抑制して死に至るような「緩和」が本人の意思確認もせずに行われてしまうことと、重症児だから手術の翌日にも痛み止めをいれないで放置することと、どちらも、そこにある「どうせ」という意識がさせることなんだと、私には思えてならなくて。

2013/3/26(火) 午後 5:14 [ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

返信ありがとうございます。

『「痛みを止めるのは、命に悪いんじゃぁ!!」と一方的に怒鳴りつける』>いやー、超弩級のとんでもないドクハラ医者に当たってしまって、本当にとんだ災難でしたね。

言葉が話せない乳児でも、痛みを感じないと思う人はいないだろうし、ましてや医者なのだから。いや逆に医者だから「人(患者、他人)の痛みに鈍感」にならざるを得ない、ことはあるのかも。「自分の家族の手術は、自分にはできない」という医者が多いというのは、いちいち患者の痛みに共感していては、冷静に治療できないという事情もあるのかと。

しかしこの話はそれ以前の問題だと思われます。
この件では、たとえ「いつ何が起こるか分からない重症児に、余計なことはしたくない」という事情があったとしても、他の医療職の人も、お子さんの痛みの訴えを認めているのを無視し、振り切って、通常と異なる対処を強行するのは異常としか思えません。

2013/3/27(水) 午前 1:50 [ @hijijikiki ]

むしろ、その医師が、お子さんを「同じ人間(我々の一員)だと思っていない」のではないのか、と勘ぐってしまいます。そういう差別意識があって、痛みや苦しみを放置するという、とんでもない差別的な扱いをしている、と考えると、その医師の異常な振る舞いの原因が分かる気がします。

しかし、お子さんが危急の状態で、苦痛にあえいでいる中での医者との闘争、本当に大変でしたね。読んでいるだけで理不尽さに怒りをおぼえました。

日頃から、良いかかりつけの医者がいればよいと思っていますが、良い医者と思われる人にはめったに当たったことがない。
ましてや、このような緊急・危急の場合には、事実上医者を選んだりできないので、本当に怖いです。

2013/3/27(水) 午前 1:52 [ @hijijikiki ]

痛みに関しては、最近はペインクリニックなどが少しは普及してきて、「痛みの悪循環」など、痛みを放置することによる身体状況の悪化が知られ始めてきていますが、それは一部で、旧態依然とした医者がまだまだ多そうです。

しかし、科学技術や医学が発達し、医者の技術レベルが向上することとは別に、お子さんの場合のように、「普通」や「標準」から外れた人に対する差別的な、非人間的な扱いという側面を考える必要がある。というか、むしろ科学や医学の装いに隠れて、弱い立場の人間を差別し排除する非人間的な扱いを明らかにすること(立岩さんやspitzibaraさんのお仕事のような)が重要かと。

2013/3/27(水) 午前 1:54 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

おはようございます。昨日はつい激して書いてしまい(この時のことはまだまだ興奮せずには語れない……)失礼しました。私も「同じ人間だとは思っていない」からそうなるんだと思うし、実際に英国の2007年のレポートにあるのも、まさにそういう事例だったりします。

本当は自分の側に例外的な患者に対応するだけの知識と技量が欠けているのだから、そこのところを他科の医師なり施設の医師や家族なりに聞いてくれれば済むのに、プライドがあってそんなの思いもよらない。この体験でさらに痛感したのは、施設と病院の間の力関係、同じ病院内での小児科と外科の力関係など、組織の都合が問題なんだなぁ、ということでした。結局「患者のためにはどうするべきか」という発想はほとんどなくなってしまう。医療の現場がなかなか「患者の最善の利益」だけで動けていないことは、そこにいる方こそが良くご存じなのでは、と思いますが。

2013/3/27(水) 午前 7:42 [ spi*zi*ar* ]

hijijikikiさんが書いてくださった最後のところの、技術が向上することによって、例外的な人への排除が進み、パーソン論的な差別が進むというのは、本当におっしゃる通りだと思います。まさに医療においても世の中の変化においても、そういう構図がどんどん進行していく感じですね。

医療の専門分化の問題が最近はよく言われますが、身体障害者は物理的に一般的な検診を含めた医療を受けにくいという問題があるし(この前、娘にちょっと乳がんが疑われた時期があって、マンモなんか物理的に無理だということに気づきました。ウ―レットは身障者が婦人科の診察を受けられないことについて書いています)、他に知的障害者や精神障害者には、身体の病気になった時に両方を分かって診ることのできる医師が少ないという問題もあるし、これは本当は難病の人やその他慢性病の人だって同じだと思うのに、そういうことはあまり問題視されないですよね。でも、その問題は、患者の命に直接的に関わっているはずで。そっちの問題は無視されたまま、医療が引いた線引きで人が死なされていくというのは、やっぱりものすごく抵抗があります。

2013/3/27(水) 午前 7:56 [ spi*zi*ar* ]

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■■■■■■■ (この間の、5つのコメント投稿は、まとめに加入しませんでした) ■■■■■■■
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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、「言葉が話せない乳児でも、痛みを感じないと思う人はいない」がふいに頭によみがえって思い出しました。昔は乳児は麻酔なしに手術していたという話を、この前ある医師から聞きました。それから数年前にNYTだったか、米国の小児科では乳児に侵襲的な治療を行う際には砂糖水をなめさせていたけど、それには鎮痛効果なんかなかったという研究結果が報告されていたし、医療の文化というか感覚の中に、もしかしたらパーソン論的なものが組み込まれている……とか?

去年の暮れの早稲田の尊厳死法制化シンポでも、終末期の患者さんに家族が声をかけていたら医師が「そんなことをしても無駄ですよ。もう犬や猫程度の意識しかないんだから」と言った、という話が出て、「でも犬や猫は痛みはちゃんと感じるし、人間とコミュニケーションだってとれるんだけどなぁ」と私はその時に思いました。

2013/3/27(水) 午前 10:55 [ spi*zi*ar* ]

(上からの続き)
でも、それはその医師が「犬や猫程度の意識」が実際にどうかということに興味があるわけではなくて、「すでに人間とみなせない存在でしかない」ということを犬や猫を引き合いに出して言っただけなんですよね。きっと。そこを飛躍させてしまう医療の感覚というのが、実際は痛みを感じようが感じまいが意識があろうとがあるまいが「どうせ人間とみなさなくてよい人」として、痛みにも意思にも対応しないことに繋がっていくのだとしたら、本当に恐ろしいです。

2013/3/27(水) 午前 11:06 [ spi*zi*ar* ]

これは、どなたへのお返事ということではなく、ふっと思い出したのでメモとして書いておくのだけど、

この前、とりあえず一部だけ読んだピーター・シンガーの『生と死の倫理』で、「すべり坂」が「いずれ反自発的な積極的安楽死が起こってしまう」ということに限定的に定義されていたのが印象的だった。「すべり坂」って、もっといろんな形で起こるものだと思うのだけど。

2013/3/27(水) 午後 10:21[ spi*zi*ar* ]

accelerationさんのご指摘を読み返していたら、もとの「勝手な投与で殺された」というタイトルは言い過ぎだな、という気がしてきたので、訂正しました。

2013/3/27(水) 午後 10:24[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

「昔は乳児は麻酔なしに手術していたという話」>これが本当だとすると、この根拠というか、どういう感覚でこう判断し、実行してたのか、とても知りたいですね。

先述した、
『その医師が、お子さんを「同じ人間(我々の一員)だと思っていない」のではないのか、と勘ぐってしまいます。そういう差別意識があって、痛みや苦しみを放置するという‥』で、
『差別意識があって』というふうに、自覚的な差別意識があるような書き方をしましたが、必ずしも意識的・自覚的でなくても、「劣っているから、劣ったなりの対応でよい」という思い込みや先入観などを持っていて、漠然とそう考えていても同じだと思います。

この差別の問題や、ご指摘の医者のプライドや「施設と病院の間の力関係」、「身体障害者は物理的に一般的な検診を含めた医療を受けにくいという問題」などの、障害者や病人や老人など弱い立場への差別的なひどい扱いは、後述するような多くの要因が絡み合って起きているのだと思います。

2013/3/28(木) 午前 1:46[ @hijijikiki ]

これらの要因を思いつくままに列挙すると、
① 差別の問題
② 人をモノとして扱うこと
③ 言葉による概念化で、連続した事象の分断
④ 能力主義や権威への服従
が挙げられ、包括関係としては、 ③ > ② > ① > ④ の順に狭まってくるのかと
(それほど詰めたわけではありません。特に④の位置は微妙)。

③の「言葉による概念化で、連続した事象の分断」は、例えば障害者と健常者は連続している(明確な区別が付くとは限らない)のに、障害者という名付け、即ち言葉による概念化で、連続した実態に線引きして分断していること、などです。

言葉による概念化自体は、人間の思考の重要な部分を占めており、それ自体は不可避であり、人間の他の動物との違いや文化や文明の成立は、これによるものでしょう。

2013/3/28(木) 午前 1:47[ @hijijikiki ]

手術後のお子さんへ、医者が痛み止めの処方を十分しなかったことは、その医者が、もし仮に障害者という概念化や思い込み(③による障害者を分断する思考)が強くなければ、生じなかったことかもしれません。

例えその医者の対応の原因がそれだけでなかったにしても、
spitzibaraさんや他の医療職の人も、お子さんの痛みの訴えを認めて、その医者に処方を求めているのを無視し、振り切って、通常と異なる対処を強行した背景には、

この障害者という概念化や思い込みから更に、科学や医療や行政や政治が行う②の「人をモノとして扱うこと」、更にそれに続く①の「差別の問題」と④の「能力主義や権威への服従」があるのかもしれません。

②の「人をモノとして扱うこと」は、このブログの別エントリー「2013年3月20日の補遺」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66189387.htmlのコメント欄でkakaaさんが指摘されていた、病人を「病理物体」として扱うということもその例だと思われます。

2013/3/28(木) 午前 1:49[ @hijijikiki ]

しかし、前述したように、例えば、医者が患者の痛みに一々共感していては、冷静に治療できない事情も他方にはあり、必要悪として人をモノとして扱うことは、ある局面では不可避的なこととしてあるのだと思います。

しかし「ある局面では不可避的なこととしてある」ことは、それを拡大適応して良いというわけではないことは無論で、最小限にするべきなのは言うまでもありません。
これを、「人をモノとして扱う」ことの正当化の言い訳として使うのが、官僚や御用学者の良く使うやり口だと思います。

更にこの「人をモノとして扱うこと」は、人を集合体(マス)として見ることも含まれます。例えば、機器や薬を作るときに、まず最初は平均的、標準的な人間をモデルにして設計がなされています。
つまり人間はここでは統計的データの標準値=「普通」として、まず最初に扱われます。

2013/3/28(木) 午前 1:52[ @hijijikiki ]

これは現在の科学技術のあり方での“常識”と思われていることでしょうが、ご指摘のように、「身体障害者は物理的に一般的な検診を含めた医療を受けにくいという問題」ということがあり、最先端の技術開発が大好きな政府や産業界はこのような分野にこそ注力し、税金を投入して、弱い立場に本当に必要とされているものを開発し、実現すべきでしょう。

この②の「人をモノとして扱うこと」が西洋近代において、科学や医療や行政や政治によって大々的に行われてきたことが、①の「差別の問題」にも大きく影響して、現在の差別の実情があるのではないでしょうか。

別の言い方で言えば、
科学や医療や行政や政治を行う者=権力者=強い立場に立つ者は、「人をモノとして扱うこと」が可能な、それにより利益を得る者であり、
他方で、弱い立場に立つ者は、モノとして扱われることで不利益をこうむる者であると言えるのでは。

2013/3/28(木) 午前 1:54[ @hijijikiki ]

更に、④の「能力主義や権威への服従」について。
能力主義は②の「人をモノとして扱う」能力や、その他の科学や医療や行政や政治を実行し、制御し、支配する能力の階層・ピラミッド、序列を価値、規範とするものであり、
その能力主義的な階層や序列を権威として認め、それに服従することが、この科学や医療や行政や政治が支配する社会・世の中で認められ、上位の地位につくための有力な方法でしょう。

そして、手術後のお子さんへ、医者が痛み止めの処方を十分しなかったことも、このような階層や序列の支配する社会で形成された能力主義に基づく権威への服従から、能力が低いとされる障害者、病者、老人は劣っているから劣ったなりの、普通でない扱いをして良い、と思いこむ・考えてしまうのでは。

このような強い立場からの弱い立場への侵害や支配、ひどい扱いをやめさせるために、科学や医療や行政や政治を実行し支配する者を監視し、侵害や被害を告発することが必要かと。

長々と、未完成な持論を展開してしまい、失礼しました。

2013/3/28(木) 午前 1:55[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、私もこのエントリーの後で、いろいろと考えていたことがこういうことだったので、すごく共感しながら読ませていただきました。結局、「生活保護の人にはジェネリックでいい」というのと同じことなんだろうな、と。そして、そこで「一般人と生活保護の人」の間に線引きする意識というのは、いろんなところに任意の線引きを可能にしていて。

上のコメントを書いて思いだしたことがあるんですけど、ずいぶん前に学者と‥

    【....spitzibaraさんのご要望により、一部削除....】

‥がありました。それが、上でお話しした外科医がハエでも追い払うような動作で話を一方的に打ち切り、立ち去って行った時に発した音声と全く同じなんですよ。もちろん目には「バカくさ。相手にも出来んわ」という色が露骨に浮かんでいるわけで。

2013/3/28(木) 午後 0:32[ spi*zi*ar* ]

(続きです)そこにあるのは、他者に対して「そういう態度をとってもよい人間」と「それ以外」という線引きで。私も教師をしていた時に生徒・学生の立場にいる人に向けて引いていた線引きなのかもしれません。

自分を勝手に優越者とみなして他者を見下ろす意識が、世の中のあちこちで人にそれぞれ任意の線引きをさせていて、そして、その任意の線引きが社会的に許容されたり共有されている範囲と程度に応じて、その線引きが公共性を帯びる。今の世の中では、その範囲がどんどん広がり、程度も酷くなっていく感じですよね。そして、強い者の弱い者への搾取や侵害や支配にその線引きが利用されていく。

もう一つ、このエントリーを書いた後で、障害学のMLで他の方々のやり取りから考えていることがあるので、それはできればエントリーを立てて書きたいと思っているのですが……。

2013/3/28(木) 午後 0:34[ spi*zi*ar* ]

hijijikikiさんが「最先端の技術開発が大好きな政府や産業界はこのような分野にこそ注力し、税金を投入して、弱い立場に本当に必要とされているものを開発し、実現すべきでしょう」と書かれている、その種の不均衡にこそ、問題の本質がありますよね。患者がより良い医療を受けるための「自己決定権」や、その選択への支援やガイドラインではなく、どうして治療をやめたり諦めるためだけの「自己決定権」やガイドラインしか議論されないのか。最先端医療で治せるかもしれない命だけが「命を救えることの素晴らしさ」の文脈で語られて、地味な従来の医療で現に救うことが可能なはずの命だってあるのに、そちらは語られないのか。なぜロボット介護ばかりがもてはやされ、人間による介護ではなくそこにカネがそそがれていくのか。なぜ医療や科学技術による途上国支援ばかり言われて、貧困問題そのものに取り組もうという話ではないのか。私たちは、どこに目を向けるかというところで、すでに操作されていて、その操作に気付かないようにされているんじゃないのかなぁ、という気がします。

2013/3/28(木) 午後 0:52[ spi*zi*ar* ]

hijijikikiさん、上記の「すべり坂」の下りについては、ちょいと差しさわりがあるので、もし万一まとめとかに使われる際にはご配慮いただけると嬉しいです。勝手言ってスンマセン。

2013/3/28(木) 午後 2:00[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

『「すべり坂」の下りについては‥』>了解しました。まとめを作る際には、該当部分は削除します。

『自分を勝手に優越者とみなして他者を見下ろす意識が‥線引きをさせて‥その線引きが公共性を帯びる』>その範囲が広がり、搾取や支配に利用されるとのご指摘は同感です。

出発点の素朴な“優越感”、例えば「我が子が一番可愛い」や「うちのパパは世界一」は、これも③の「言葉による概念化で、連続した事象の分断」なのですが、この程度のままなら微笑ましい罪のないものでしょう。

それが「能力のある者が優れており、そうでない者は劣っているので違う扱いでよい」になるのは、先述のように②の「人をモノとして扱うこと」、更に①の「差別」と④の「能力主義や権威への服従」の各段階が作動し、強い立場による弱い立場に対する搾取や支配のために利用されることで、より更にそれらの各段階が相互に強化しあい反復する(拡大再生産する)ことで、現在の社会ができてきたのかと。

2013/3/29(金) 午前 1:07[ @hijijikiki ]

この「差別」と「能力主義や権威への服従」をひどくする悪循環や拡大再生産を押さえ、止めさせること。それは、全ての人がまともに生存できる権利、即ち、健康で文化的な生活が送れる権利=生存権を実現することにつながってくるでしょう。

この実現のために必要なのは、多くの税金を生存権のために優先的に使うことで、それにより弱い立場に本当に必要とされているものを作り、整備し、供給すること。それにより、実際に弱い立場に立つ者がまともに生存できる、していることを示すこと、及びこのような仕組みを実現するための運動が、前述の差別や能力主義の悪循環を押さえ、止めさせることになるのでは。

2013/3/29(金) 午前 1:09[ @hijijikiki ]

「先端医療だけ語られ‥地味な医療、人間による介護、貧困問題そのものへの取り組む話がない‥どこに目の向けるかが操作されている」とのご指摘、その通りだと思います。

先端技術を優先するのは本末転倒であり、生存や生活に必要な物の提供、供給を優先すべきだと思います。

能力主義を競争的に押し進めた結末が、このような生存や生活に不可欠な地味で普通の日常生活の重要さを無いもののように扱い、特定の基準に沿った能力を競い合うことや、測定することに過剰に価値を見いだし、過剰に賞賛することになったように見えます。

学校やスポーツ競技の過度の競争重視や結果の重視や賞賛が、今までは社会全体の一部だけだったのが、どんどん拡大している感があります。

ごく一部の先端技術や飛び抜けた成果や驚くべき結果など、スポーツやショービジネス、バラエティ番組のノリで取り上げられ、過剰に注目されているような。

2013/3/29(金) 午前 1:10[ @hijijikiki ]

戦後の経済成長期までは、製造業など二次産業中心のフォーディズムであったのが、次第にサービス業など三次産業中心のポストフォーディズムになり、
今までは工場で決められた仕事をまじめにこなすことが求められていたのが、最近は接客などの対人関係力を求められるようになった。

更に、みんなが「名人芸」を求められるようになってきた、という話がありますが(パオロ・ ヴィルノ「ポストフォーディズムの資本主義」)、特に最近はそうなってきている感じがします。

しかし、別の面から見れば、製造業は機械化して皆が働かなくても世の中が回るようになったのだから、余った労働力を生存権を実現する仕事や活動に向けることが可能になったとも言えるのでは。

ボランティアや困っている人を助けることが注目され、人気があることも、ご指摘の地道な人間による活動へと、多くの人が関心を向けていることの現れの一つかもしれません。

って言うと、楽観的すぎるかもしれませんが、価値観の転換は、方向付けと地道な蓄積があれば、いつか機会がやってくるのではないか、と思っています。というか思いたいですね。

2013/3/29(金) 午前 1:12[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。

「能力のある者が優れており、そうでない者は劣っているので違う扱いでよい」これまさにアシュリー療法正当化で言われていたことそのものですね。

「製造業は機械化して皆が働かなくても世の中が回るようになったのだから、余った労働力を生存権を実現する仕事や活動に向けることが可能になったとも言える」ということも、おっしゃる通りと思います。こういうふうに考えたらベーシック・インカムとかソーシャル・エンタープライズとか、私はちゃんと分かっているわけではないんですけど、そういう方向にしか解はないんじゃないかと素朴に感じていたんですけど、

2013/3/29(金) 午前 11:47[ spi*zi*ar* ]

ただ、その一方で、先端技術の国際競争がグローバル経済の文字通り生き残りをかけた弱肉強食の世界と化している現実が、弱肉強食のヒエラルキーが幾重にも重なっているだけで、これはもうどうにもポイント・オブ・リターンを超えちゃっている感じがして、日々のニュースはそれぞれそのエビデンスとしか見えない絶望感みたいなのがあります。

でも、hijijikikiさんが言われるように「いつか価値観の転換の機会が」と思うしか、今日明日を生きる元気も出ませんしね。だから、やっぱりいつか……ですね。

2013/3/29(金) 午前 11:47[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

「生き残りをかけた弱肉強食の世界と化している現実が‥ポイント・オブ・リターンを超えちゃっている‥絶望感」>確かに昨年末の選挙結果や近年の政治経済状況などなどを見ると、戦後民主主義が獲得してきた人権や生存権は、発展するどころかじり貧状態で、今にも覆りそうで、とても嫌な感じですね。

しかし、世界的に見れば、逆の例も。
米国などの介入や干渉などで、中南米の国々は、冷戦以降に軍事独裁政権の下で、戦時中の日本と同様か更に酷い弾圧があり、その中で民主化運動をする人々が逮捕・拷問・虐殺・行方不明など過酷な弾圧にさらされた後に、
民主化政権が次々と誕生して、やっとまともで(ある意味日本以上に)民主的な政治・経済が復活しつつあるようです。

私が懸念するのは、中南米の国々のように、過酷な弾圧や人権侵害が社会に満ちあふれるまで、または満ちあふれていても、多くの人が人権や生存権などの実現を求めようとしないのか、そのような変革や変化を求めないのか、ということです。
より過酷な状態になる前に、なんとかしたいという。。。

2013/3/30(土) 午前 1:42[ @hijijikiki ]

「価値観の転換」と書きましたが、「転換」よりも「回転」=レボリューション=革命の方が良い表現かもしれません。
全く異なる他のものに移り変わるのではなく、既に内部にある要素に、ぐるっと回って変わるという意味で。
(前にspitzibaraさんたちが「自分の中の、ぐるぐる回りのらせん」 【 注:まとめ『(続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか』http://togetter.com/li/410124を参照 】 と書いていたのも関係するのでは)。

「価値観の回転」とは:
我々は多種多様な価値観を今現在、既に持っており、それには人権や生存権も含まれている。
しかし、現実の社会や体制や政治により形成された実際の生活の諸般の事情から、現実に適応する(=生存する、生き残る)ために、やむを得ず現実を追認するような暮らしをし、思考や価値観までその形態に染まっている。
それでも、今ある政治や社会が押し付けている制約(=絆!)が緩めば、既に(潜在的にかもしれないが)持っている違う価値観に変わってゆく可能性があること
:です。

この辺の所は、前に「犠牲の累進性」をご紹介したときに引用した、現代思想06年12月号の対談:立岩真也+白石嘉治「自立のために」に、近いと思われる箇所があります。

2013/3/30(土) 午前 1:44[ @hijijikiki ]

●白石 『デヴィッド・グレーバーという人類学者が「低理論(ロー・セオリー)」という概念を唱えています。それは「高踏理論(ハイ・セオリー)」の対立項ですが、
ハイ・セオリーというのは、整合性を求める分析的な言説で、‥‥
ロー・セオリーというのは、単純な理論ではありません。低い場所に留まりつつ、そこからデリケートで原理的な問いを発していく。それは実践的な複雑さをともなった倫理的な言説としてあらわれる。だから、それこそ立岩さんが所有論からやってきたことも、一種のロー・セオリーだと思います。』(同書p41)

ここでの白石氏の用法を若干変えて適用すると、「価値観の回転」は、ハイ・セオリーからロー・セオリーへの回転とも言えるのでは。

●立岩 『次に民主主義ですけど、僕はそれをそんなに信じているかというと、そうでもない。むしろ、「人がどう言おうがこれが正しい」みたいな路線でものを考えていった方が筋だろう‥‥
そのことと同時に、「民意」ってものがそれなりに大切だということは、矛盾なく言えるだろうとも思ってます。』(同書p42)

2013/3/30(土) 午前 1:45[ @hijijikiki ]

●白石 『立岩さんのお仕事というのは、多数の人が漠然と思っていることに対して、根底的なところから、いわば低いところから異議を投げかけて積み上げていこうとする。そこには低いところから多数となるという方向性が確実にあり、原理的だから孤立を厭わないということではない。』(同書p43)

以上の対談の引用にある、ロー・セオリー、即ち「根底的な、低いところからの異議」、自由や生存権や再分配などの原理的な問いを、「人がどう言おうがこれが正しい」という路線で考え、「価値観の回転」によりそれ=低いところ、が多数、即ち「民意」になる方向性がある、というふうに読みました。

というわけで?!、「価値観の回転」は変わってないように見える現在の状況の中でも、
「自分の中の、ぐるぐる回りのらせん」のように、少しずつでも生じている変化があるのかもしれないし、このような潜在的な過程なしには目に見える回転は生じないのでは。。。

と考えると、この路線でよいのだ、と楽観的に思ってます。

2013/3/30(土) 午前 1:47[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。そのハイ・セオリーとロー・セオリー論というのは、面白いですね。ジグソーパズルがきれいにはまった時みたいな、クリアな納得感があります。このところ、植物状態とされる人を含む重症障害者の「意識」について、医師のアプローチと介護者や家族のアプローチの違いのことを改めてあれこれ考え回しているところなので、ちょうどそのギャップを考えるにも、それって、目の前が開ける感じ。

2013/3/30(土) 午前 8:50[ spi*zi*ar* ]

一つ確認させてもらうと、弱肉強食の「ポイント・オブ・ノー・リターン(ノーが抜けてました)を超えちゃってる」と絶望的に感じるのは日本国内の現状ではなくて、各国ともそういう状況に追い込まれてしまうグローバル経済の変容がそこまで行っちゃってノー・リターンなんじゃないか、ということだったんですけど、私はhijijikikiさんが見ておられる南米などの民主化運動にはあまり目が向いていなかったなぁ、という気付きもいただきました。つまり、元のところにリターンする必要はないわけですよね。そこかららせん状にぐるっと廻って、元のところと同じように見えて新たな境地に行きつければ。それをめざすなら、ノー・リターンであることに絶望する必要もない。そういうことなんですね。

いつも目の前が閉じているように見えるところで、そこを開くようなお話をありがとうございます。

2013/3/30(土) 午前 9:19[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

ご確認の「絶望する必要もない」は、同感です。以下に述べるロー・セオリー的な、整合性や既存の枠にとらわれないことは、絶望から遠ざかる方向に行くこと、でもあるのではと思います。

「ハイ・セオリーとロー・セオリー論というのは、面白い」>いやー、同感です。

私が興味を感じて読むものは、例えば立岩さんにしろ、spitzibaraさんにしろ、野崎泰伸さんにしろ、どこかしらロー・セオリーっぽい視点や考え方があるものがほとんどで、立岩さんの本を読むようになったのも、後から考えるとそういうふうに言語化できるのかなと。

立岩真也「私的所有論」(ざっとしか読めてませんが)の序文にも
「新しい何かを「発明」しようというのではない。行おうとするのは、既に、確かにあるもの、しかし十分な言葉を与えられていないもの、それを覆う観念や実践の堆積があって言うことをやっかいにしているものを顕わにすることだ。」(序ⅳページ)
とあって、これなんかも、ロー・セオリーのことだ、と読むことが可能かと。

2013/3/31(日) 午前 2:05[ @hijijikiki ]

また、女性運動系の考え方・論者で、上野千鶴子氏よりも田中美津氏にずっと多く共感を覚えるのも、
ハイ・セオリー的に、現実にあるものを、整合性のために既存の枠や理論に押し込もうとせず、
自分の経験や感覚を元にして、それを自分で納得のできる言葉(たとえ整合性がなくても)にしてゆくロー・セオリー的なところなのか、と思います。

岩崎稔他『戦後日本スタディーズ2:60・70年代』の「インタビュー田中美津」聞き手:北原みのり、上野千鶴子
の中で:

●上野:「そりゃみなさん、いろんな葛藤抱えてますよ。一方で男女共同参画を唱えながら、家に帰って、せっせとご飯作ってしまう私に、引き裂かれてないとは限らない。」(同書p325)

●田中:「...リブ運動に参加していた女たちは、より今に生きてたんだと思う。世の中がどうなろうと、この今、この私が惨めであってたまるか!という思いはみな強烈にあったから。
【続く】

2013/3/31(日) 午前 2:07[ @hijijikiki ]

【続き】
自分と世界をカクメイする、つまりじぶんのぐるりのことからつなげて世界を見て行く、変えて行く。そうでないと、自分一人も解放できない解放運動になってしまう。
世のため人のためにがんばって立派だけど、あんまり幸せそうじゃない・・・というような人や運動が多すぎるから、そういうものにはなるまいと、私たちは最初から思っていた。」(同書p327)

ってな所に、両者の方向性の違いが良く出ていて、それがロー・セオリーとハイ・セオリーとの距離の違いかな、という感じがします。

2013/3/31(日) 午前 2:08[ @hijijikiki ]

【追加です】
前に引用した、現代思想06年12月号の対談:立岩真也+白石嘉治「自立のために」
に、面白いやり取りがあったので。。。

●立岩『‥たくさん払っているので威張る、というのはこの世における限りその通りですが、原則的に言えば、たくさん払っているからといって威張るな、と言うしかない。』

●白石『それ感情論ですか(笑)。社会学者がそんなこと言っていいんですか。』

●立岩『それを言い張るしかないんじゃないか、と思うんです。たくさん払う人に威張らせない、払わない人はびびらない、という。‥‥
仮に俺だけしかもらっていなくても、それで俺を馬鹿にするなと言う、それはかまわないんだという方が筋だと思うんです。』
(以上、同書p52)

2013/3/31(日) 午後 2:56[ @hijijikiki ]

ここでは、立岩さんの方が白石さんよりも、徹底してロー・セオリー的であると思います。

前に引用した、白石『ロー・セオリーというのは‥低い場所に留まりつつ、そこからデリケートで原理的な問いを発していく。それは実践的な複雑さをともなった倫理的な言説としてあらわれる。』
という発言で言明している、『実践的な複雑さをともなった倫理的な言説』とは、
まさに立岩さんの『たくさん払っているからといって威張るな』のような発言であり、これは倫理的、規範的、価値観的なものです。

この対談のような議論をしてゆくと、必ず倫理的、規範的、価値観的なものを避けることができないはずで、それを避けないというか、自覚的に扱うのがロー・セオリーの特徴だろうに、『社会学者がそんなこと言っていいんですか』というのは、ロー・セオリー的でなく、ハイ・セオリー的な発言に見えます。

2013/3/31(日) 午後 2:56[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、田中美津さんは、私、大好き!! です。上野千鶴子さんのは「頭の言葉」、田中美津さんのは「身体の言葉」という感じがします。それはそのままハイ・セオリーとロー・セオリーにも当てはまるんでしょうね。そして、田中美津がすごいと思うのは、身体の言葉と言うのは普通、頭の言葉をツールにしている世界の人たちには相手にされないんだけど、痛む身体のその痛みを自分のものとして全面的に引き受けて居直った(これ、立岩先生のおっしゃっている立場に通じますね)言葉の力によって、「頭の言葉」の世界に殴り込みをかけることができた、ということにあるような気がします。頭の言葉の世界の人だって、「仕事」では頭の言葉を武器にしているかもしれないけど、自分だって生身の体で生きている「一人の人」であることに立ち返れば、決して弾き返して終わってはならないはずだと思うんですけど。あらゆる『学』の権威性みたいなものについて、そう思います。

2013/3/31(日) 午後 6:47[ spi*zi*ar* ]

hijijikikiさん、上で書いたこと、いま私が考えている植物状態とされる人を含め重症障害者の「意識のあり方」についても当てはまるような気がします。植物状態と診断されている人の家族は、英語圏の「無益な治療」訴訟でも、回復事例でも、日本でそういう方のご家族のブログでも、「家族の声掛けには反応がある」と言っているんです。それを医師らは「ただの反射だ」とか「家族が現実否認しているだけ」と弾き返す。でも、医師らは家族の言っていることを確認するだけ、一定の時間、その人の側にいるのか。その人に触れて、本当に確かめたのか、そう思うんです。その人と「共にある」という事空間を共有することによってしか、その共有を通じて身体で体験する以外に「分かりようがないこと」というのが世の中にはある。教科書の知識と権威だけで(つまり「頭の言葉」だけで)分かったことにされてしまっているだけではないのか。そのことを、ずっと考えているところです。

2013/3/31(日) 午後 6:53[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

『痛む身体のその痛みを自分のものとして全面的に引き受けて居直った(これ、立岩先生のおっしゃっている立場に通じますね)言葉の力によって、「頭の言葉」の世界に殴り込み』>はい。「頭の言葉」とは、論理的で整合的で、一見価値中立的で、妥当に見え、反対しづらいもののことですね。

それはご紹介した、ハイ・セオリーと重なるものだと思います。

しかしどんなに価値中立的に見える高踏的な理論・理屈=「頭の言葉」、ハイ・セオリーでも、遡ってゆけば、必ずそれ以上遡れない仮定や原理があるはずです。

これを明らかにして、弱い立場が強い立場のハイ・セオリーに異議を述べるために、
ロー・セオリーという発想が生まれたのだと思います。

『頭の言葉の世界の人だって‥生身の体で生きている「一人の人」であることに立ち返れば』>ここのところですね、ポイントは。

2013/4/1(月) 午前 2:20[ @hijijikiki ]

学者とか専門家とかいわれる人は、科学的といわれている原理、実際には学会などの権威に承認された原理や出発点から、論理的整合的に、つまり「頭の言葉」で結論を導くことが得意な人たちで、この特性や傾向で積み上げられた理論がハイ・セオリーかと。

そのような「頭の言葉」=ハイ・セオリーにどっぷり浸かった学者や専門家の多くは、自分たちがよって立つ基盤であるはずの、原理や出発点について十分考えて、知っているかというと、たいていの場合、学界などの権威に依拠するだけで、それらを検証したり疑ったりする視点がない人が多いと思います。

そのような、自分の基盤を検証したり疑ったりしない“半端な”学者や専門家は、『生身の体で生きている「一人の人」である』ことに立ち返ることによって、自分の築き上げてきたものが壊れることを恐れて、または自分(たち)のこれまで作ってきた構築物を守るために、「生身の体」や「生の現実」を見ようとしない、否認・否定・無視することがあるのでしょう。

いわゆる「専門バカ」とか「猟師、木を見て森を見ず」もこの一形態でしょう。この場合には、「現実をよく学んでもらう」で対処可能かもしれ

2013/4/1(月) 午前 2:22[ @hijijikiki ]

ません。

しかし、価値の問題や、価値観の争いや、ある価値による支配の意図の問題が絡むと、話はこの程度では済まないでしょう。 【 注:まとめ『正当性を印象づけること&正当性の根拠を問うこと、について:「御用学者」の場合、早川由紀夫氏の場合』http://togetter.com/li/262022の末尾「早川先生の評価を巡って」を参照 】

むしろ、このやり取りの最初の「緩和ケア」を巡る問題や、その前の「認知症、終末期医療」の問題と同様に、差別の問題として扱う方がよいのでは。

学者や専門家の問題について続けると、spitzibaraさんのブログエントリー「Spitzibaraからパーソン論へのクレーム」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/54922681.htmlでの
『具体的なイメージが必要な文脈では最重度ケースのイメージが用いられ、
そのくせ全体の文脈では最重度者のイメージに乗っかって導かれた論理に
「知的障害者」「認知症患者」全般がいつのまにか乗せられていく』

というのも、学者や専門家が自分の築き上げた理論や業績を守るために、現実を見ない、否認・否定・無視することに加え、価値観の争いや、ある価値による支配の意図も、これには含まれているかもしれない、と思えます。

その場合には、前述したように、単に「現実をよく学んでもらう」では不十分で、差別問題として扱った方がよいのかもしれません。

2013/4/1(月) 午前 2:25[ @hijijikiki ]

『「家族の声掛けには反応がある」‥それを医師らは「ただの反射だ」とか「家族が現実否認しているだけ」と弾き返す。でも、医師らは‥その人に触れて、本当に確かめたのか』>これも、先の専門家による否認・否定・無視の例だと思います。

ここに、価値観の争いや、ある価値による支配の意図が、含まれているか否かは、各々のケースによって違ってくると思います。

しかし、昨今の尊厳死や脳死を導入しようとする動き、ある価値観による支配の意図が明確な事態が進行しているので、ある特定の価値(優生思想)による支配が含まれている恐れや、そちらに誘導される恐れがとても大きいと思われます。

このような差別と呼ぶのが適切と思われるような場合には、spitzibaraさんの上記のような批判や反論はとても重要なものだと思います。
学者や専門家の不適切なハイ・セオリーに対する批判や異議=ロー・セオリーとして、価値観や規範や差別に踏み込んだ働きかけとして。

2013/4/1(月) 午前 2:27[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。このところあれこれ考えている重症意識・認知・知的障害者の「意識」への捉え方の問題で、今いちばん考えているのは、そうした権威者による否認・否定・無視の中に、実は論理に精査された「頭の言葉」でも何でもない「どうせ」という彼または彼女の生身の人間としての差別意識が作用していて、またその専門家の否認・否定・無視が社会一般にも共有され広がっていくことの中に、今度はそうした専門家の発言に、それらを受け止める側の「どうせ」という差別意識が呼応していくからでは……そこで起こっていることが「頭の言葉」のやり取りではなく、実は無意識の差別意識の共鳴・共有であるからこそ、人間の選別の線引きは議論が繰り返されることによってじりじりと前倒しされていくのでは、ということなんです。

2013/4/1(月) 午前 8:55[ spi*zi*ar* ]

例えば昨日のカナダの「無益な治療」事件でも、「昏睡」としか報道されていないのに、受け止める世間の側が「脳死なんだから」と飛躍させていく。でも実は、この人への治療を「無益」とする医療職の判断の中に、それは「どうせ脳死と同様に不可逆」だという線引きの前倒しとして、既に織り込まれてもいるような……。

まだ上手くまとまりきれていないのですが、hijijikikiさんとのやり取りから多くのヒントをいただきました。考え続けてみようと思います。長いこと密度の濃いやりとりをいただいて、ありがとうございました。

2013/4/1(月) 午前 8:56[ spi*zi*ar* ]

hijijikikiさん、自分で締めくくっておいてナンですが、その後また上記の問題を考えていたら、08年に【認知能力はあるのに表出能力が限られているために「どうせ何も分からない」と勝手に決め付けられてしまう重症障害児・者の疑似体験】というのを考えついていたエントリーに行き当たったので、話のついでにTB http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/29909116.htmlしてみました。具体的には以下です。

車椅子に乗って拘束衣が見えないように毛布でくるみ、そのまま誰かが押して街中に出る、レストランで全介助で水を飲ませてもらい(必ずこぼれます)、全介助で食事をする(食べこぼしが散らばります。顔も汚れます。きっと満足感もありません)。もちろん絶対に口を利いてはいけないのがルールで。

2013/4/1(月) 午前 10:31[ spi*zi*ar* ]

ツイッターをやっていた頃に重症障害者をめぐる問題を扱う学者の方々を実際の重症障害者の介助に引っ張り込んでもらえませんか、と支援の世界の人たちにお願いしてみたことがありましたが、こういう疑似体験企画も、例えば例のバリバラ辺りから、やってみてもらえませんかね。

外見だけは重症障害者となった非障害者に、はたして周囲がどんな目を向けるものか──。

2013/4/1(月) 午前 10:33[ spi*zi*ar* ]

hijijikikiさんが、大きな問題意識に拡げて論じようとしてくださるものを、毎度毎度spitzibaraの方は、自分が今とりあえず考えている特定の問題に引き戻して、スミマセン。どうも、そういう繰り返しになってきたので、この辺りで自分の「ぐるぐる」に戻ります。ありがとうございました。

2013/4/1(月) 午前 10:36[ spi*zi*ar* ]

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 @hijijikikiの投稿:

『大きな問題意識に拡げて論じよう‥毎度毎度spitzibaraの方は、自分が今とりあえず考えている特定の問題に引き戻して』>いえいえ、この辺のところがこれまでのやり取りで良かったと感じるものの一つです。

spitzibaraさんの私と異なった視点や立ち位置からの具体的な問題提起やご指摘などのおかげで、私の、つぎはぎだらけ、穴だらけの雑多な議論や仮説などなどが、自分なりにですが、ある程度明確になり、相互関係が少しははっきりしてきたかと。

このようなやり取りにお付き合いいただき、ありがとうございました。

2013/4/2(火) 午前 1:29[ @hijijikiki ]

『こういう疑似体験企画も、例えば例のバリバラ辺りから、やってみてもらえませんかね』>賛成です。というか、バリバラで前にそれと似たような企画を見ました。

中途障害の車椅子ユーザーの方が、「車椅子で移動すると、一々『すいません』と何回も言わないとならず大変だ」との発言に、健常者の人が反論し、では試しにその健常者の方も車椅子に乗って一緒に移動する体験をしてみる、という企画でした。

結果は、スーパーでの買い物と駅のプラットフォームに行くだけで、短時間に確か二百回以上『すいません』と言い続けて、その健常者の方も「大変さ」に同意した、という内容でした。

こういう企画だけで十分というわけではないでしょうが、ぜひぜひ似たような企画を増やして欲しいですね。

学校教育の一環として、子どもに障害者や老齢者の疑似体験をさせるというのをニュースで見ましたが、行政の担当者や責任者、特に福祉担当や都市計画担当者などに、職務の一環として、例えば車椅子通勤などを義務づければ、すぐに解決しそうな問題もたくさんあるかと。

2013/4/2(火) 午前 1:30[ @hijijikiki ]

以下、若干補足します。

『専門家の否認・否定・無視が社会一般にも共有され広がっていくことの中に、今度はそうした専門家の発言に、それらを受け止める側の「どうせ」という差別意識が呼応していく』>これはとても重要なところだと思います。

この、否認・否定・無視や差別意識の「循環や連鎖」の問題は、今回のやり取りの中では十分展開できなかったので、また別の機会にお話ししたいです。

『無意識の差別意識の共鳴・共有であるからこそ、人間の選別の線引きは議論が繰り返されることによってじりじりと前倒しされていく』>ここもほぼ同意ですが、若干違う考えのところもあります。

それは、『じりじりと前倒しされていく』ことは多いかもしれないが、そうとは限らないし、条件次第では逆の展開もあり得るのでは、と思うところです。

『差別意識の共鳴・共有』に対応することを、私は、「循環や連鎖」と表現しようと思いますが、それが作動する仕組みや構造、生じる事象同士の絡み合いは多種多様で、場合によってその様相は千差万別だと思います。

2013/4/2(火) 午前 1:32[ @hijijikiki ]

上のコメント欄の3/29(金)で、
『②の「人をモノとして扱うこと」、更に①の「差別」と④の「能力主義や権威への服従」の各段階が作動し、強い立場による弱い立場に対する搾取や支配のために利用されることで、より更にそれらの各段階が相互に強化しあい反復する(拡大再生産する)ことで、現在の社会ができてきた』
と書きました。

「弱い立場」とは、経済社会的に「強い立場」に従属せざるを得ない、たとえ嫌でも、強い立場の言うことに従わなければならない、そうしないと大きな不利益をこうむる立場です。

それでも、3/30(土)に書いたように、悪い方向だけでなく良い方向にも「価値観の回転」がありうると思うのは、
『(弱い立場にいる者は)現実の社会や体制や政治により形成された実際の生活の諸般の事情から、現実に適応する(=生存する、生き残る)ために、やむを得ず現実を追認するような暮らしをし、思考や価値観までその形態に染まっている。
それでも、今ある政治や社会が押し付けている制約(=絆!)が緩めば、既に(潜在的にかもしれないが)持っている違う価値観に変わってゆく可能性があること』
からです。

2013/4/2(火) 午前 1:33[ @hijijikiki ]

この可能性を実現できるように、即ち、押し付けられている制約故に、やむを得ず現実を追認する・現実と妥協する必要のない条件、
即ち、おおざっぱに言えば、いろいろな場面で自由と生存権の実現の方向に向かう=安心して生活でき、ものが言える環境を整えることが
差別問題を含む多くの問題の解決のもっとも基本的で大きな条件ではないかと思います。

この辺は、前にお話しした宮地尚子「環状島=トラウマの地政学」の環状島の<水位>(「トラウマに対する社会の否認や無理解の程度を意味する。」)について、
「複数の環状島全体の<水位>を下げるために生存権運動」が重要であることと関係するかと。
(まとめ『右傾化と揺り戻し:選挙後のspitzibara氏とのやり取り』http://togetter.com/li/433993の
「著者の宮地尚子氏宛の2008年のメール」http://twishort.com/ZmJccなどに記載があります)。

2013/4/2(火) 午前 1:35[ @hijijikiki ]

上記の悪循環や連鎖について、人種・民族差別の場合に関して、
『差別や優遇政策によって経済的教育的職業的などの格差が生じ、それが更に差別を呼ぶという悪循環』などを、

まとめ『ナショナリズム・レイシズム・差別と、相互的な交流/を阻むもの』http://togetter.com/li/470716
の2ページ目の上の方に書きました。ご参考まで。

いやー、今回もまた長々とやり取りにお付き合いしていただき、本当にありがとうございました。

今後ともよろしくお願いします。

2013/4/2(火) 午前 1:37[ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。学ぶところの多いやり取りを、ありがとうございました。こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。

2013/4/2(火) 午前 7:46[ spi*zi*ar* ]

 

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るまたん(ほぼインアクティブ) @lematin

(立岩真也の「禁じ手」1)「第一に、生産をよいものとした。よいものというより必要なものとした。死や苦痛を悪いものとした。そして、欲求の個別性を事実として認めた。これは相対性、社会性、歴史性を言う立場からは禁じ手である」(『私的所有論』302)

2013-04-02 19:03:45
るまたん(ほぼインアクティブ) @lematin

(立岩真也の「禁じ手」2)「何がよく何が悪いものであるか、それが固定されていないことを否定はしない。…しかし、いったんは、快を快とし苦を苦とする、その事実を認めよう。その事実を認めた上で、どのように論を組み立てられるのか考えてみようとする」(『私的所有論』302-303)

2013-04-02 19:06:41
ひじじきき @hijijikiki

この延長にロー・セオリーが⇒『ロー・セオリー‥低い場所に留まりつつ、そこからデリケートで原理的な問いを発していく。それは実践的な複雑さをともなった倫理的な言説‥立岩さんが所有論からやってきたことも、一種のロー・セオリーだと‥』(続く)RT @lematin立岩真也の「禁じ手」

2013-04-03 17:54:30
ひじじきき @hijijikiki

.@lematin 続き)この引用は、現代思想06年12月号の対談:立岩真也+白石嘉治「自立のために」から。この辺のことをhttp://t.co/ASfNfRhhYQのコメント欄の3/30の投稿で述べました。

2013-04-03 17:57:52
リンク Ashley事件から生命倫理を考える 生きたいのにICなしのモルヒネ投与で死んでしまったALSの元外科医(MT州) - Ashley事件から生命倫理を考える - Yahoo!ブログ 09年にターミナルな患者へのPASを禁じた法律は違憲だとの判断が出たモンタナ州の議会には 現在、PASを明確に違法とする法案が提出されていますが、 それを受けて、地元紙に元外科医の妻から投書。 ALSの夫を本人の意思に反するモルヒネ投与で失...

 
 
●spitzibara氏のブログ【Ashley事件から生命倫理を考える】から引用:

 「生きたいのにICなしのモルヒネ投与で死んでしまったALSの元外科医」

2013/3/26(火) 午前 8:47
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66205566.html

『   09年にターミナルな患者へのPAS(医師による自殺幇助)を禁じた法律は違憲だとの判断が出たモンタナ州の議会には
現在、PASを明確に違法とする法案が提出されていますが、

それを受けて、地元紙に元外科医の妻から投書。

ALSの夫を本人の意思に反するモルヒネ投与で失った体験を語り、
その法案に賛成するよう各選挙区の議員に呼びかけを求めている。

Carol E. Mungasさんの夫は
モンタナ州の元外科医。

ALSを発症して妻が自宅で介護していて、
意思疎通は文字盤としゃべる機能付きのiPadで可能だった。

頭ははっきりしており思考も損なわれておらず、
安楽死や自殺幇助には反対していた。

妻が所用で1日半、町を離れなければならなくなり、
夫はその間、地元の介護施設に入ることになった。

ところが、彼の状態について何らかの情報の混乱があったのか、
看護師らがモルヒネを投与し始めた。

数回の投与を受けて、何が起こっているか(オーバードースになっていること)に本人が気付き、
呼吸セラピストを呼んでくれとメッセージを打ったが
誰も来なかった。

その後の数日間、夫は呼吸苦と闘いながら
妻子とコミュニケートするために意識を失わないように必死になったが、
看護師はモルヒネを送るボタンを押し続け、
子どもたちにも15分おきにボタンを押すよう指示した。

その時には妻も子も、
モルヒネで呼吸が抑制されることなど知らなかったが、
夫はちゃんと分かっていたのだ。

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こんなものは緩和ケアでもペイン・コントロールでもありません。死を早めただけです。夫は事実上、本人の意思に反して安楽死させられたのです。夫は選択を許されませんでした。彼の最後のコミュニケーションが、助けを呼ぼうとするものだったとわかり、今なおトラウマになるほどの苦しさです。

夫のケースでわかるように、医師と看護師は現行法のもとで有している力を既に誤用・濫用しています。ことは命にかかわる問題です。自殺幇助の合法化によって、彼らの力を拡大することには熟慮が必要です。
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Husband's death illustrates need for law declaring physician-assisted suicide illegal
Ravalli Republic, March, 22, 2013

結局、以下の直前エントリーと同じ―― ↓

助かったはずの知的障害児者が医療差別で年間1238人も死んでいる(英)(2013/3/26)

【モンタナ州自殺幇助議論関連エントリー】

  (....省略....)

 

 
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 立岩真也「なんのための「緩和」?」

http://www.arsvi.com/ts/20100024.htm

立岩 真也 2010
『日本医事新報』
http://www.jmedj.co.jp/magazine_iji.html

 (....省略....)

  8月の末に日本難病看護学会の学術集会に呼んでいただいた。「難病」という言葉はもとは行政用語の曖昧な言葉ではあるが、その説明はこの雑誌ではよいだろう。ALSといった人たちに、かなり早期から、モルヒネなどの薬物・麻薬が使われ始めているが、それでよいのか。その懸念から企画されたシンポジウムに出た。私はごく短く次のようなことを述べた。
  私はなにより辛いのはきらいだ。だから、薬が効くなら、使うことになんのためらいもない。モルヒネだって、試したことはないが、きっと好きだと思う。けれど、適切に世話すれば、格別の身体の痛みのない人、なくてすむ人に、痛覚だけでなく意識を鈍麻させる薬を与えるのはどうか。すこし昔のことを思い出してみよう。
  かつて、たしかに効き目のある精神科の薬剤が入ってきて、精神医療の様子がずいぶん変わった。その全体がよくないことだったと私は思わない。ただ、それは多くの病院で大量に使われ、そして身体や頭脳の活動のだいぶを鈍麻させ、それでたしかにその人たちはおとなしくなった。閉鎖病棟をなくしたとか減らしたとかいう話もその頃あったのだが、それは結局、かなりの部分、そうしておとなしくなったので、鍵をかけたりする必要が少なくなったという事情によっていた。だから開放がまやかしだったとか、薬がだめだと言うつもりはない。ただそんな事実があった、今もあることは押さえておこう★01。
  それと今、難病の人に与えることが推奨されつつあるらしい薬剤の使用とは違うのだと言われるはずだ。たしかに同じでない。それも認めよう。けれどもまず、その分、周囲が楽になるという事実・事情はやはりある。もちろん楽になること自体がわるいことであるはずはない。ただ、言うまでもなく、痛みは多くなにかの不具合を示すものでもある★02。例えば体位の微妙なずれによって苦痛が生じるのだが、それは周囲が対応すれば和らげることもできる。それを知って、まずするべきことをした方がその人の身体のため生命のためによい。またそれ以外に、たんに身体的と言えない苦しみがある。そんな場合でも薬剤を使うとよい場合があることはある。ただそれは、ときに、生きようとすることをあきらめてもよいという方向に、というか、そんなことを思ったりすることのない方向に――しかも機器を使い制度を使えば、あと何年も何十年も生きていける状態なのに――働いてしまうことがある★03。それは癌のどうしようもない身体の疼痛を緩和するために薬剤の適切な使用が有効であることとは違う。今進められようとしていることは、もし「緩和ケア」がよいものであるなら、その言葉を誤って使っている。それはよくない。

 (....以下省略....)

 

リンク Ashley事件から生命倫理を考える Spitzibaraからパーソン論へのクレーム - Ashley事件から生命倫理を考える - Yahoo!ブログ 前のエントリー 森岡正博氏(29歳当時)による「パーソン論の限界」 で取り上げた 森岡正博氏の「生命学への招待」は1988年に書かれたものだし (29歳ですでに生命学の構想にたどり着いておられたのですね&&すごっ) 私は森岡氏のブログはとも...

 

 

■田中美津文献メモ「インタビュー田中美津」2009からの抜粋(見出しは引用者が付加)

★ 岩崎稔他『戦後日本スタディーズ2:60・70年代』紀伊国屋書店 2009:「インタビュー田中美津」聞き手:北原みのり、上野千鶴子

 ●1.結婚について★p321:

上野:結婚も許容範囲ですか?
田中:だって「結婚している女一般」を生きている人なんてどこにもいない。知り合いの夫婦はNHKを辞めた夫が専業主夫をしているし。私にとってはいつだって好きな結婚と嫌いな結婚があるだけよ。
それに人には楽を選ぶ権利があるし。私だって主義主張から「未婚の母」になったわけじゃない。あの男と一緒に家庭作るんなら、まだしも未婚の母にな方が楽だと思ったからそうした。だから結婚が楽だと思う人はそうしたらって思う。

 ●2.運動と個人については★p325:

上野:そりゃみなさん、いろんな葛藤抱えてますよ。一方で男女共同参画を唱えながら、家に帰って、せっせとご飯作ってしまう私に、引き裂かれてないとは限らない。
田中:引き裂かれていても、そういうことは個人的なことで、取り組むべきは権利の獲得、法の改正・・・というように、国際婦人年以降再びなってこなかったかということを、私は問題にしているのよ。リブは、いわばその対極にある運動だったから。
避妊の相談や離婚したい女に弁護士を紹介したり、優生保護法改悪に反対して国会に馳せ参じたりと、わたしたちも三六五日いろいろやったけど、でも本音のところでは女性解放一般なんてどうでもよかった。いや、どうでもというのは言い過ぎだけれど、私たちは世間や男のまなざしに怯えて縮こまっている自分を救いたい一心で、がんばっただけ。

 ●3.「フェミ/リブの運動」について★p327:

田中:じゃあ、なぜ退屈なんだろう、運動としてのフェミニズムって。
...
田中:...リブ運動に参加していた女たちは、より今に生きてたんだと思う。世の中がどうなろうと、この今、この私が惨めであってたまるか!という思いはみな強烈にあったから。
自分と世界をカクメイする、つまりじぶんのぐるりのことからつなげて世界を見て行く、変えて行く。そうでないと、自分一人も解放できない解放運動になってしまう。世のため人のためにがんばって立派だけど、あんまり幸せそうじゃない・・・というような人や運動が多すぎるから、そういうものにはなるまいと、私たちは最初から思っていた。