「社会」に向けられる「死ね」はダメで、「社会」よりも小さい集団、あるいは個人に向けられる「死ね」は許容されうる道理がまったく理解できない。
2013-06-11 10:15:29@tenapi おれはほんとうに、集団に対してであれ、個人に対してであれ、「死ね」という言葉が言われるのはいやなんですよ。それは、ぜったいに言っちゃいけない言葉だと思う。
2013-06-11 10:21:30@tenapi その言葉が他者(あまり使いたくない言葉ですが、自分以外の社会や個人というぐらいの意味合いです)に向けられるのを見ると、ほんとうにかなしくなります。
2013-06-11 10:25:16@t_hayashi 同意します。国境とか社会階層とか、必ずしも自分の意思ではなく社会のどこかでプリセットされた選別と排除。あるいはもっと小さい個人対個人かもしれないけど、相手を消し去りたいというのは、ひるがえって自分を滅ぼす禍根です。
2013-06-11 10:31:05@t_hayashi 「無条件の受容」というと、なんだか宗教的な感じだけど、すでに無条件に受容されてこの世に存在している人たちが、互いに相手を排除しあっている。実に愚かな、悲しいことです。
2013-06-11 10:40:36ある方に尋ねられたので言います。「鬩ぎ合う」と書いて「せめぎあう」と読みます。いまでは「押し合いへし合いしてしのぎを削る」ような平和的建設的なイメージで理解されていますが、本来の意味は「互いに恨み言をいいあい憎しみをぶつけあう」です。
2013-06-11 10:42:04@tenapi ただ、「すでに無条件に肯定されて在る」というのは、あまりにま容易く忘れられがちだと思うんですよね。だからぼくは、機会あるごとにそのことを噛みしめることにしています。
2013-06-11 10:43:22@t_hayashi かくいう俺も愚か者の一員。自分が許されて受け入れられて存在しているということをなかなか信じられずにいます。つい汚い言葉を使ってしまうこともあります。そして修行は続く。
2013-06-11 10:46:49@t_hayashi そうなんです。そしてそれがなかなかできない。つい虚勢を張ってしまう。それで俺だったらあとで恥じ入ることになりますが、己に鑑みて恥じ入るということすら、人の世ではできないのかもしれません。
2013-06-11 10:54:11@tenapi 「自他の愚かさをふたつながら認める」なんてことが貫徹できているという人は、それはそれで偽物っぽいです。ぼくらは、「できるようになりたい」ということを抱えつつ、「でもできないからがんばる」ということを一生つづけていく。それが「生きる」ということだと思います。
2013-06-11 11:00:01@toltaroppo ありがとうございます。ぼくは、今現在ろくでもない人間なので、ましな人間になる努力を死ぬまでつづけていくのでしょうね。
2013-06-11 11:03:21