- masakishibata
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6月24日
いつものおはようございます。
片桐且元の命日におはようございます。元は浅井家臣。名は直盛とも。羽柴秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで功を挙げて『賤ヶ岳七本槍』のひとりに数えられる。以降は主に奉行として活躍。豊臣家の奉行でありながら徳川家康寄りの姿勢が強く、それにより大坂を追放された。豊臣家滅亡の僅か20日後に死去。
2013-06-24 09:18:50且もっちゃん(と浅野と池田)の諱な話。
片桐且元の諱のことを調べていて「且元」が晩年の名前ということは分かったんだけど「助作」呼びの期間が長すぎて「直盛」がいつ頃からの名前なのかは不明なまま。
2013-06-24 12:59:35片桐且元の諱の話な。1584年、小牧・長久手の戦いの陣立書では「片桐助作」と書かれている。そして、従五位下に任じられた際に初めて「直盛」という名前が確認できる、と。且元の父の名は「直貞」なので、この『片桐直盛』というのが初名なのだろう。
2013-06-24 18:37:47で、1590年の小田原征伐ではこれが「直倫」となっていて、よく知られる「且元」の名が見られるのは1600年になってから。このほかに「且盛」と名乗っていた時期もあるとされ、直盛→直倫→且盛→且元という流れになるのかな。
2013-06-24 18:38:10そうなると、60歳の生涯の中で『片桐且元』と名乗っていた時期は晩年の15年間。豊臣秀吉の死、もしくはそれ以前の恩顧大名同士のいざこざの中で改名せざるを得ない状況があったということになるなぁ。
2013-06-24 18:38:26戦国武将がよく知られている名前を名乗っていた時期が限定されるという事例は他にもあります。たとえば、浅野長政は1598年前半まで「長吉」と名乗っており、『浅野長政』は晩年の13年間です。池田輝政も1600年まで「照政」で『池田輝政』は晩年の12年間ですね。
2013-06-24 18:39:54ちなみに、且元の長男(嫡男ではない)である片桐某の正室は池田長政の長女。長政は「片桐長政」とも名乗っており、その系統は『片桐池田家』として幕末まで岡山藩の家老を務めています。
2013-06-24 18:40:24でもさー、「浅野長吉と浅野長政」とか「池田照政と池田輝政」とかは後者のよく知られている名前のほうがかっこいいけど、「片桐直盛と片桐且元」は前者の知られていない名前のほうがかっこいいよね。あくまで個人的な感想ですけど、そんなところも且もっちゃん。
2013-06-24 18:41:00且もっちゃんの武功な話。
片桐且元が前線で戦った明確な記録って、意外にも賤ヶ岳の戦いしかないのか。他は小牧・長久手の戦い→馬廻として本陣防衛、九州征伐→船奉行として軍船の調達、小田原征伐→戦後処理、文禄の役→街道整備と休戦交渉、関ヶ原の戦い→自身は参加せず。見事なまでの後方支援コース。
2013-06-24 21:13:38且もっちゃんの奉行な話。
1598年から大坂城番として大坂城に常駐することになり、翌年には城内の所務の監督的立場を任される、と。他に全国に散らばる豊臣家の蔵入地を監督したり、寺社奉行として畿内の寺社復興を進めたり、秀吉の7回忌の総奉行をしたり・・・あれか、総務部長みたいなもの?
2013-06-24 21:14:09石田三成・増田長盛・長束正家らが他大名との折衝を伴う外向きの役目が多いのに対し、且元はあくまでも豊臣家の内部や畿内に向けた役割を担っている。検地の奉行になったのも丹波・摂津・河内だし、所領も播磨と摂津に与えられているし。何よりも大坂城に常駐しているわけなので。
2013-06-24 21:14:41関ヶ原以降は完全に豊臣家内部の人間になっているよね。下手に徳川家康と通じているものだから、家康からの要求を家中に取り次いで最終的に承認を代行して家康に返答する役目を背負わされたというか。
2013-06-24 21:16:45且もっちゃんの板挟みな話。
そして、方広寺鐘銘事件。わざわざ駿府まで行って家康と面会もできず、突き付けられたのは要約すると「誠意を見せてもらいましょか」と。具体的な要求がないだけ逆に加減を間違うと一気に全面戦争になる局面。まぁ、一気に全面戦争になったんですが。
2013-06-24 21:17:12そうして且元が持ち出した豊臣家の選択肢は、1)秀頼を駿府と江戸へ参勤させる、2)淀殿を江戸に人質として送る、3)秀頼が大坂城を退去する。まぁ、どれも選べないわな。しかし、且元も無理難題を自ら掲げたかったわけではなく、ここまでしないと許されない空気を感じたのでしょう。
2013-06-24 21:17:43で、結局は家康への内通を疑われて大坂を追放。その日は同時に家康から大坂への宣戦布告の日でもありました。そして、大坂冬の陣の開戦です。
2013-06-24 21:18:04そして、大坂の陣へ・・・
且元も幕府方として参戦し、大筒部隊を率いて大坂城天守への砲撃に参加。戦後、駿府に屋敷を与えられて移り住みます。程なく夏の陣が勃発すると徳川秀忠本隊と合流し、岡山口に布陣。そこで大坂城の落城と豊臣家の滅亡を目の当たりにしました。
2013-06-24 21:18:54