日本占領史の一背景――オプラー著『日本占領と法制改革』(1990年)抜粋

 1945年8月、敗戦とともに、日本のひとびとは連合国による占領という現実に向きあうことになります。この占領は、半ば必然的に、旧来の帝国法体制の改革を意味しました。日本の占領と改革はどのようにして行われたのでしょうか。  ここでは、その占領行政に携わった一人のユダヤ・ドイツ系アメリカ人、アルフレッド・オプラー(Alfred Christian Oppler, 1893-1982)の視点で、日本の占領と改革の実態を見てみましょう。  以下では、まず、オプラーが占領行政にかかわるまでの経歴・背景についての貴重な証言を掲載しました。自伝的著作『日本占領と法制改革』(原著1976年、邦訳1990年)からの引用です。 引用文献: 続きを読む
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dabitur @dabitur

[book] 読みはじめた。これは良書の予感... / Oppler, Legal Reform in occupied Japan, 1976 / オプラー『日本占領と法制改革』1990年 http://t.co/Zo2ynoGdKM

2013-06-29 01:14:47
dabitur @dabitur

[quote] 「1970年代の新しい世代の人達にとっては、第二次世界大戦終結直後に――ここアメリカ及び国外で――広く抱かれていた無私の民主主義の伝導者としての合衆国のイメージを思い起こすことは難しいかもしれない」(クルト・シュタイナー)(オプラー(1990)序文)

2013-06-29 01:32:12
dabitur @dabitur

[quote] 「それゆえに、彼等は初期の占領者達の伝導的情熱を政治的な単純さに帰するかもしれないし、おそらく真実のかつもっと邪悪な占領目的にだまされていたせいにさえするかもしれない」(ibid.)

2013-06-29 01:33:56
dabitur @dabitur

[quote] 「しかし、こうしたアメリカの理想主義者達の民主主義や市民の自由の大義への献身は心からのものであったので、圧政的かつ偏執狂的な独裁から抜け出てきたばかりの進歩的日本人は、国籍を越えた共通の大義の共闘者と認めたのであった」(ibid.)

2013-06-29 01:34:21
dabitur @dabitur

[quote] 「1981年5月の初め、私はたまたま*オプラー博士訪問の宿願をようやく果すことができた」「博士の住むのは、〔ニュージャージー州ハイツタウンの〕その住宅地に連なっているメドウレィクスという老人ホームである」(内藤頼博「監訳者緒言」)(オプラー前掲書)

2013-06-29 01:38:10
dabitur @dabitur

[quote] 「〔オプラー博士は〕大審院長の細野長良氏はじめ大審院の方々、司法省や最高裁にいた方たち、そして大学の先生方のこと も、一人一人の名前をあげて思い出を話す。自分が東京で住んでいたのは、世田谷区池尻町1028の平山邸であっ た、ともいう*記憶のいいのに感心する」

2013-06-29 01:41:05
dabitur @dabitur

[quote] 「そして、オプラー博士は、紙片に自ら鉛筆で書き記した。(魅惑的な時代であった) (日本の人たちは、いまは私を忘れてしまった。しかし、私は彼らを忘れていない!)」(ibid.)

2013-06-29 01:43:15
dabitur @dabitur

[quote] 「私は*1893年に、アルザス・ロレーヌで生まれた。このころこの地は、未だドイツ領であった。 私の祖父母は未だユダヤ教の信者であった」(オプラー(1990:4))

2013-06-29 01:49:04
dabitur @dabitur

[quote] 「この時代のドイツでは、伝統的な反ユダヤ思想がはびこっていたけれど、 祖父オプラーは、プロイセン陸軍の現役軍医少佐で、しかも*デンマーク戦争*普墺戦争及び*普仏戦争で勲章を授けられた英雄であった」(オプラー(1990:4))

2013-06-29 01:51:29
dabitur @dabitur

[quote] 「私の父は裁判官で、ベルリンの部長裁判官としてその経歴を終えてい る。私の両親は既にキリスト教徒になっていたし、兄も私も揺藍のうちに洗礼を受けた。私達はプロテスタントとして育てられたのである」(オプラー(1990:4))

2013-06-29 01:52:25
dabitur @dabitur

[quote] 「〔第一次大戦の〕ドイツの敗戦に伴い、アルザス・ロレーヌ州はフランス領になったが、私達はフランス国民になることを選ばなかったので、一家はシュトラースブルクから 追い出され、生まれ故郷を失なった。*私達は、父が再び裁判官の地位を得ることになったベルリンに落ち着いた」

2013-06-29 01:54:47
dabitur @dabitur

[quote] 「私はプロイセンの司法部と行政部においていろいろな役職を務めた。*ポツダム州の社会福祉カウンセラーとして、さらに上級行政裁判所の一員としても働いた。*38歳の時には、最高行政裁判所の陪席判事とな り、39歳の時には、最高懲戒裁判所の副長官に任命された」(ibid)

2013-06-29 01:56:52
dabitur @dabitur

[quote] 「しかしヒトラーが権力を握ったのに伴い、このまれに見る経歴は政治的・『人種的』理由から終止符を打たれてしまった。私は、ケルンの地方的官位にまで降格された後、ついには解任されてしまった」(オプラー(1990:5))

2013-06-29 01:58:19
dabitur @dabitur

[quote] 「私達は、母国ドイツを去り難く、第三帝国よりも私達の方が長生きすると思って、移住をためらい、時を失してしまった。アルザスに戻ろうとした私の試みは 失敗に終わった」(オプラー(1990:6))

2013-06-29 02:00:14
dabitur @dabitur

[quote] 「英語を話すことができず、手先の不器用なドイツの一法律家にとって、アメリカでの生活は希望の多いものではなかった。私は学生時代、ラテン語、ギリシャ語、フランス語を学んだが、英語は随意選択科目だったので、学んでいなかった」(オプラー(1990:6))

2013-06-29 02:00:54
dabitur @dabitur

[quote] 「そして1938年11月9日の『水晶の夜』に続いてユダヤ人の大量逮捕と収容所への拘禁が行われたときになって、恐怖の方が私よりも長生きするであろうということと、自分で自分の命を守らなければならないということをやっと実感したのである」(オプラー(1990:6))

2013-06-29 02:01:49
dabitur @dabitur

[quote] 「出生地がたまたまアルザス・ロレーヌであったということで、私はアメリカ移住のためのフランス国籍者への割当 にあずかることができた。このことがおそらく私の命を救うことになった*この割当は、ドイツ国籍者への割当と異なり、すぐには満杯にならず、私はすぐに移住を許された」

2013-06-29 02:04:19
dabitur @dabitur

[quote] 「1939年12月、 私が最終的に出発の準備ができたとき、ドイツ軍はチェコスロバキアの残された領土に侵攻すると脅していた。連合国が侵略を阻止することを期待する一方で、そうすれば第二次世界大戦が始まってアメリカへの移住が禁止され*てしまうのではないかと心配した」

2013-06-29 02:07:11
dabitur @dabitur

[quote] 「宥和政策はまだ功を奏していたが、 チェコスロバキアに対する略奪に対して連合国側は何もしなかった。*〔結果として〕私は自由の大陸へ船で旅立つことができた。*携行を許されたのは結婚指輪と当時およそ4ドル相当の10マルクだけであった」(オプラー(1990:7)

2013-06-29 02:09:08
dabitur @dabitur

[quote] 「〔1945年9月の〕対日戦勝記念日の後、それまで戦争遂行機関であった対外経済局は解消し、私達職員は暫定的に国務省に転属になった。国務省の人事官は私のドイツでの経歴に興味を持っているようには思えなかったし、私自身もドイツ問題にはうんざりしていた」(ibid,p,9

2013-06-29 02:14:33
dabitur @dabitur

[quote] 「それゆえ私は、敗戦国の占領*日本への配属を私が承諾するか否か、と問い掛けられたことを喜んだ。ドイツでの過去と絶縁し、異なった人々や文明を体験し*軍国主義的かつ独裁主義的支配の害悪から日本の社会を救う手助けをするということは、挑戦するに足る機会と思われた」ibid

2013-06-29 02:16:09
dabitur @dabitur

[quote] 「日本でなにをなすべきかについて、〔ペンタゴンの陸軍大佐の〕彼が何も教えてくれなかったので*日本の事柄については何も知らない、と告白した。『ああ、それは結構』『日本のことを知り過ぎている人間は、偏見を持つにちがいない。だから日本通はいらないんだ』と大佐は答えた」

2013-06-29 02:20:30
dabitur @dabitur

[quote] 「私は、国務省で見たのと同じ現象を、ここ〔ペンタゴン〕でもいくぶん戸惑いながら体験した。つまり、ここでは彼等は私が何も知らないがゆえに私を必要としているし、国務省では私があまりにも知り過ぎているために私のドイツに関する知識に関心を 示さなかったのである」ibid.

2013-06-29 02:21:46
dabitur @dabitur

[quote] 「その後日本にきて、私は大佐が何を考えていたのか初めて理解した。軍事的占領をとおして、 民主化の計画として何か新しいものを築きあげる改革者を必要としたのである」(オプラー(1990:10))

2013-06-29 02:22:39
dabitur @dabitur

[quote] 「日本の過去や伝統に精通し、それを愛好する日本通と呼ばれる人々は、本質的に保守的であり、しかも占領当局の改革に懐疑的であった。後に、民主化の先駆者たち―そこには私自身も含まれる*―の行きすぎを防ぐ分銅の役割りを彼らが果すことになる のは、この理由からであった」

2013-06-29 02:24:06