「社会」という日本語の歴史(明治時代編)

societyを明治時代の人間はどう理解したか、について。
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INOHARA Tohru @tukinoha2

【日本語としての社会】1 近世社会においては誰もが自由に政治の話をできるわけではない。しかしながら、近世も終わりに近づいてくると色々な人が読書会を開いたり、浪人やいわゆる「志士」たちが集まって政治の議論をしたりするようになる。

2013-07-02 23:23:00
INOHARA Tohru @tukinoha2

2 こうした「みんなが好き勝手に政治の話をする状況」自体が明治維新の原動力になった、というのが、藤田省三の「維新の精神」という論文の主旨。

2013-07-02 23:24:53
INOHARA Tohru @tukinoha2

3 最近の前田勉『「会読」の思想史』はもう少し踏み込んで、明治以前においてすでに「討論のマナー」らしきものが一定数の人々に共有されはじめた、と論じている。果たしてそこまで言えるのか、は難しい問題ですが、「討論」という習慣に近世社会とは異質の原理を見出すのはおそらく正しい。

2013-07-02 23:27:53
INOHARA Tohru @tukinoha2

4 「討論」という習慣が近世社会とは異質の原理に基づいている、というのは同時代においても理解されていて、福沢諭吉や西周ら明六社のメンバーは西洋社会の特質を討論に見た。意見が合わない相手がいても暗殺したりしない。意見が合わない相手も尊重する。それを「人間交際の道」などと呼んだ。

2013-07-02 23:31:33
INOHARA Tohru @tukinoha2

5 societyとは「人間交際の道」であり、「社交」である。いまだ日本には根付いていないけれど、これから根付かせるべき一種の規範的意味をsocietyに込めたわけだ。

2013-07-02 23:33:07
INOHARA Tohru @tukinoha2

6 その契機に明治初期に作られた最初の議会(らしきもの)である公議所の失敗経験が絡んでいるのも、おそらく間違いない。討論がまるで成り立たず、その意味で「社会」は成立しなかった。加藤弘之などはこの失敗を延々引きずっていく。

2013-07-02 23:35:49
INOHARA Tohru @tukinoha2

7 明六社は「討論」の実践場というか、社会を実際に作ってみせる場として立ち上げられた。しかしながら、福沢たちがそれで満足したわけではない。明治10年代に入っても「日本にいまだ社会はない」と言い続けている。

2013-07-02 23:38:37
INOHARA Tohru @tukinoha2

8 国会の開設を求める民権運動家でさえ「五箇条の御誓文」にその論拠を求め、ゆえに反対者を不敬な人間と決めつける。こうした反対者への絶対的否定に「討論」「社会」とは対極のものを見てとった、というわけだ。

2013-07-02 23:40:36
INOHARA Tohru @tukinoha2

9 ところで、こうした福沢的な「社会」と「政治」はどういう関係になるのだろうか。この点、福沢よりも馬場辰猪が明快に論じているように思う。「社会論」「法律一斑」などの論文が特に参考になる。

2013-07-02 23:44:44
INOHARA Tohru @tukinoha2

10 馬場にとっても、未だ日本に社会は存在していない。なぜなら「精神の概括力」が欠けているからだ、という。国民各自が「精神の概括力」を身につけると、それぞれの意見のどこが共通して、どこが違うか、どこで妥協できるか、ということがわかってくる。

2013-07-02 23:47:43
INOHARA Tohru @tukinoha2

11 「精神の概括力」は単に「まとめる」だけの力ではなく、違いを見分ける力も含まれている。そういう力を身につけることで法や政治制度も身についてくる、というわけだ。

2013-07-02 23:48:46
INOHARA Tohru @tukinoha2

12 こうした馬場的な政治理解を「弁証法」と呼ぶこともできるだろう。代議制のように多様な民意と単一の政治意思のあいだのギャップは重視されていない。そう考えると、代議士は民意の代弁者に過ぎず独自の意思をもって活動してはならない、と考えた中江兆民は福沢-馬場路線の後継者といえるかも。

2013-07-02 23:51:24
INOHARA Tohru @tukinoha2

13 そうした例外は残しつつも、基本的には明治10年代半ば以降、福沢や馬場のように「社会」と「討論」を結びつける理解は影響力を失っていく。

2013-07-02 23:53:46
INOHARA Tohru @tukinoha2

14 代わって現われるのが、「社会」から一切の規範的意味を追放し、端的に「事実」として理解しようとする社会科学者たち。具体的には「社会進化論」の信奉者たちである。

2013-07-02 23:55:14
INOHARA Tohru @tukinoha2

15 実は「社会」概念史の研究において明治20年代~30年代が最大の空白地帯なのだが、社会科学の基本的な通念(事実に基づくべきこと、何だかよくわからないが社会法則が存在すること、社会法則に従って介入することで社会を良くできること)がこの時期に形成される。

2013-07-02 23:58:45
INOHARA Tohru @tukinoha2

16 たとえば法学では社会防衛理論が導入され、「法学から正義だの悪だのとった形而上学概念を追放すべき」という考えが広まる。事実に基づいて社会法則を認識し、人間をその社会法則との関連から理解し、科学的な処置を行う。それが法学の役割である、と。

2013-07-03 00:01:37
INOHARA Tohru @tukinoha2

17 こうした「事実」の強調は、福沢らの「社会」とは対極にある。我々は規範ではなく「事実」の話をしているのだ、と。しかし結論を言えば、彼らは「事実」を「社会」に結びつける上手い理屈を考え付かなかった。

2013-07-03 00:06:24
INOHARA Tohru @tukinoha2

18 明治20年代から30年代にかけての社会学が「総合社会学=すべての学問を足したら社会学になる」と言われているように、社会をすべての人や物・行為の総和として捉える傾向、あるいは国家=社会と考え、社会を「秩序」と読み替える傾向が強かった。

2013-07-03 00:10:36
INOHARA Tohru @tukinoha2

19 社会を「秩序安寧」として理解した場合、それを象徴するのは国家であり、破壊するのは犯罪者である。犯罪者は社会から排除され、それ以外の人も「秩序安寧を守れる人=良民」であるかどうか、という観点から評価される。要するに秩序安寧=良民からの「へだたり」においてのみ個人は理解される。

2013-07-03 00:13:12
INOHARA Tohru @tukinoha2

20 こうした見方においては、逸脱的な事例は単に「秩序安寧を乱すもの」であり、積極的な意味を与えることができない。しかし、社会進化論という彼らの理論的背景からすれば、こうした逸脱的事例を強い意味で把握することこそが重要である。

2013-07-03 00:14:44
INOHARA Tohru @tukinoha2

21 そこで日露戦後に新しい「社会」が生まれてくる。それは事実に依拠し、法則性を強調し、かつ逸脱的な事例を「社会進化」との関連で把握することを目標とし、かつ、影響力を増しつつあったマルクス主義との差異化を課題とした。しかし長くなるのでこの話はしない。

2013-07-03 00:17:06
INOHARA Tohru @tukinoha2

22 とりあえず次の点を指摘しておこう。科学者によって発見され、改良される対象としての「社会」は、政治的には代表制を要請する。多様な民意とそれを代表する議員のあいだには隔たりが想定される。吉野作造の民本主義はこの延長線上で捉えられる。

2013-07-03 00:20:06
INOHARA Tohru @tukinoha2

以上です。全部読んでくれた人がいたらありがとう。

2013-07-03 00:21:01