【三国志】二宮の変への理解 2014.02.14
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@kec_y 当時の話なので、張温とか張允まで遡るのではないですかね。陸機の呉の四姓へのこだわりとかを見ても、他の四姓はわかりませんが、陸氏には「俺ら四姓が孫権を支えたんだ」という矜持があったんじゃないかと思います。
2014-02-15 00:04:22@Rieg__Goh @kec_y 張昭のことは「ご意見番」的存在として尊重してたとしても顧雍や陸遜のように軍事・政治に携わった大物としてカウントできるかどうかも微妙ですよね
2014-02-15 00:07:18@Rieg__Goh @kec_y 呉の四姓と断言もしがたいけど張昭ってのもどうかなあ、って感じですね。朱も朱治・朱然なのか朱拠あたりなのか
2014-02-15 00:22:22@Golden_hamster @kec_y 確かに朱氏といえばそっちのほうが印象ありますよね。朱桓・朱拠ではその二人相手に役者不足感も。
2014-02-15 00:32:29自分自身は社稷の臣として国事に専念し、「家の財産を増やさなかった」と無欲を称えられる一方、一族には家の財産を増やさせ、弟が多くの人に施して人心を得る陸遜のやり方をみんな見習ってはどうか(提案)
2014-02-15 00:52:44【二宮の変】への別角度からのアプローチ
魯王を外にだすべきって言う人は沢山いたのに、陸遜だけが孫権の勅使(多分楊竺)に詰問され、陸遜と連絡をとった罪で太子太傅の吾粲が獄死するってのは、機密漏洩以外に理由がないと思う。
2014-02-14 21:33:48@Rieg__Goh 後継者問題に三公クラスの役職者には、直接関わらせないというか関わらせたくない孫権。直接関係があるとわかったら死あるのみ(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2014-02-14 21:40:53@Rieg__Goh 孫家の家庭事情に、外地で兵権を持つ重臣を関わらせてはならない。関わりを持たせようとする者には死を!(ノ)゜Д゜(ヾ)ムニムニ #孫権
2014-02-14 21:50:15@Rieg__Goh 殺せと指示したわけじゃないけれど、諸葛恪の息子が孫霸と交際することを注意して教育するようにいってますしね。結果、諸葛恪は息子を殺してます(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2014-02-14 22:03:48@korekorebox ああ、確かにそのようなことがありましたね。言われてみれば、外地の重臣は、◯◯派とか言われていても、積極的に関わろうとはしてませんね。
2014-02-14 22:16:26--韓非子に書かれている
二宮の変の陸遜と似通った事例
【韓非子 外儲說】 以告甘茂,甘茂入見王,曰:『王得賢相,臣敢再拜賀。』 甘茂「王は立派な宰相を見つけられましたな」 王「誰から聞いた?」 甘茂「○○からです」 王「よし、そいつ国外追放」
2014-02-14 22:17:01秦王は公孫衍を気に入り、ある時二人だけの雑談で宰相に任ずる話をした。
それを当時だった宰相甘茂の息のかかった者が聞きつけ甘茂に報告した翌日
甘茂「王様は良き宰相を見つけられたそうですね」
秦王「それは誰から聞いたんだ」
甘茂「公孫衍が自分で言ってるのを聞きました」
怒った秦王は公孫衍を国外に追放してしまいました。
孫権の近臣は楊竺だけじゃないから、廃嫡問題を孫権が楊竺に話したのは、情報が漏れるかどうかなどを楊竺や他の側近を試したのかもしれないという事(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2014-02-14 22:01:50孫権は、韓非子の応用くらいは考えてたと思う。二宮の陸遜の対応は、反応が反対だけど甘茂の事例とよく似てる。 おそらく孫権は他の近臣にも楊竺に話したような後継者問題を語って、話を漏らして反応があるのが誰かを見て多様な気がする(ノ)・ω・(ヾ)ムニムニ
2014-02-14 22:53:47