「アンディ・ウォーホル展——永遠の15分」@森美術館

放蕩伝説さん(@devenir21)によるA・ウォーホル展感想一連のツイートをまとめました。
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蕩尽伝説 @devenir21

「アンディ・ウォーホル展——永遠の15分」@森美術館 これも2月に開催されるや、すぐ見た。ウォーホルの全体像を再現せんとする、なかなか意義深い展覧会だったが、感想の方は後回しになっている。 http://t.co/UVMJmPMfuE

2014-04-17 11:34:32
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/このアーティストの生涯の表現活動を、これだけ一挙にまとめて概観できる機会は稀だろう。かねがねウォーホルには嫌悪と反感を持ってきたが、今回初めてその存在理由が納得できた。とはいえ、好きになったわけじゃない。ウォーホルが好きな人って、たぶんカネと名声が好きな人(笑)

2014-04-17 11:38:10
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/ウォーホルは芸術家ではなく、アーティストだ。クリエーターと呼んでもいい。この手のカタカナ職業の生みの親だ。その意味で彼の存在には現代性がある。

2014-04-17 11:39:37
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/芸術家は作品を創るが、アーチストはコンセプトを生み出す。前者は作品を売るが、後者はコンセプトを売る。芸術作品はなかなか売れるものではないが、ウォーホルは企業や広告、ひいては大衆の消費活動に仕えることで、自らのコンセプトを売りまくった。売ること自体をアートとした。

2014-04-17 11:44:51
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/もはや作品に宿る美など誰も信じない。光るものは金(カネ)だけ。作品はカネを生み出す道具にすぎない。作品の持つアウラ、すなわち1回性・特異性は可能な限り脱色され、漂白される。できれば誰にでも作れ、何度でも再生可能な印象を与えることが望ましい。恰も科学実験のように。

2014-04-17 11:48:17
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/消費生活のお供となるには重苦しさや圧迫感を感じさせず、軽やかで付き合いやすい感じを与えるものが良い。現代的な生活空間やビジネスの場にすっきり収まり、なおかつ若干の才気(エスプリ)を感じさせて欲しい。そんなクライアントの要望を誰より鋭敏に汲み取り、巧みに表現した。

2014-04-17 11:51:44
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/デザイナーとして出発したウォーホルは、最初から最後まで1貫して業界人だった。かつての芸術家が王族や貴族をパトロンとしたように、現代のアーチストは唯一無二のパトロンたる消費者に仕えねばならぬ。愛されねばならぬ。それがイヤなら大学の先生にでもなるしかない。

2014-04-17 11:54:40
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/とはいえ、消費者の欲望は不定形で、曖昧模糊としている。これを一定の形に導き、鋳型に嵌め、コンセプト化する。いわば先取りされた欲望を作品の形で市場に流す。これが現代のアーチストの仕事である。広告会社との関係、業界人としての身の振り方、振舞いが彼の死命を決する。

2014-04-17 11:59:55
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/アーチストが作るのは自己表現のための作品などでは更々なく、全く逆に、大衆が自らの姿をそこに再認し、安心できるような鏡、現代消費社会における大衆の自画像のごときものだ。

2014-04-17 12:12:29
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/自分のことなどどうでもい。面前の相手を知らねばならぬ。現代社会においては誰も彼も似ている。相手を正確に見ることが、自分自身を最も正しく捉えることなのだ。ウォーホルが写真や映像に拘ったのはそのためである。

2014-04-17 12:13:28
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/免許写真用の機械で、自分はもちろん、セレブや有名人のポートレイトを撮りまくる。寝ている男の顔を延々と撮る。ボブ・ディランやW・バローズ、S・ソンタグらにカメラを向け、何分ものあいだ動かぬ姿勢をさせて撮る。

2014-04-17 12:15:16
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/自画像および肖像にたいする執着こそ、ウォーホルのアーチストとしての本領を示す。あれやこれやの顔ではなく、顔そのもの、顔貌に社会の欲望が収斂され、象徴されることを彼は誰よりよく理解していた。

2014-04-17 12:15:56
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/デカルトの「我思う、ゆえに我あり」において、我は我を思う。すなわち我は思いのなかで2重化され、鏡像化され、その限りで(不確かながら)存在が認証される。私が抱懐するイメージの中で私は存在する。

2014-04-17 12:58:01
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/逆に我が「思わぬ」時、すなわち自らへの疑念やら否認やらが存在せず、何ごとかを思う必要がなければ、自ら「有る」ことを確証できない。「我が思わぬ時には我あらず」という羽目になる。でも、それはヘンだ。思うが思うまいが、オレはここに居るはずだ(笑)

2014-04-17 12:59:05
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/「思う」という形で自らが対象化されぬ限り、自らの存在を確認できない。そこでは「思う我」すなわち意識が特権化されている。ところが、あいにく「思わぬ我」にしても存在をやめない。あくまでオレはここに居つづける。

2014-04-17 12:59:56
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/この場合の「思わぬ我」とは私たちの身体である。身体はものを言わない。それ自体で動き、勝手に存在し続ける。睡眠中に意識が無くても存在をやめない。ウォーホルのビデオカメラは男の体が呼吸し、寝返りを打つ様子を延々と捉え続ける。美しいからではなく、その存在に驚いている。

2014-04-17 13:04:32
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/意識に上らぬところで活動を続けるものこそ真の我ではなかろうか。とすれば〈私〉とは、ついにこの私が自分の眼でリアルタイムで見ることができぬ誰か、いつまでもよそよそしい他人でしかない。

2014-04-17 13:05:36
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/そう割り切ってしまえば、世間で自我とか自己と呼ばれ、自明の前提とされているものの危うさに気づくはずだ。我とは他人にすぎない。これがウォーホルの出発点である。

2014-04-17 13:06:04
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/一般に19世紀以降の近代芸術は、伝統的な価値観や美意識に無意識に拠りつつ〈真の我〉を探し求めた。自己の探求が近代芸術のドグマだった。しかしそれは多くの場合、理想の自我、あるいは理念における自我の探索でしかなく、現実の具体的関係の中の自分の探査ではない。

2014-04-17 13:07:05
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/観念的・抽象的に問うのをやめよ。バカちょんカメラに写るあなた、ビデオ・カメラの前で眠るあなた、カメラを前に所在なげにポーズを取るあなた、シルク・スクリーンに引き伸ばされ、着色され、大量にコピーされ、世間に出回る安っぽい肖像画の主こそが、あなたの真の姿なのである。

2014-04-17 13:07:28
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/近代芸術は社会に還元されぬ自己を追い求めたが、ウォーホルはそんなご大層なものは無いと冷笑する。むしろ真実は逆で、社会に還元されうるあなたこそが、真のあなたなのである。ウォーホルはそう割り切り、自画像の脱神話化を最後まで推し進めた。

2014-04-17 13:07:56
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/近代芸術は社会に還元されぬ自己を追い求めたが、ウォーホルはそんなご大層なものは無いと冷笑する。むしろ真実は逆で、社会に還元されうるあなたこそが、真のあなたなのである。ウォーホルはそう割り切り、自画像の脱神話化を最後まで推し進めた。

2014-04-17 13:07:56
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/しかし、それはやはり見える我、視線に供され、共有されるのを前提とする我でしかなかった。私と私の身体の各私性は、その神秘は視線から逃れ続ける。ウォーホルはそんな見えない次元に何の興味も無い。見えないものを聴き取ろうとする耳がない。端的に眼の人だ。

2014-04-17 13:08:26
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/ウォーホルにとって、アートとはコンセプトに基づくイメージの表現だった。しかるにアートとはイメージに尽きはしない。イメージあるいは顔貌性から逃れ出るものに無知なまま留まったがゆえに、かれの生み出したイメージからはいかなる音楽も聴こえてこないのである。

2014-04-17 13:09:15
蕩尽伝説 @devenir21

A・ウォーホル展/さて、ウォーホルとほぼ同時代、パリで似たような自画像の脱構築を行なったのが工藤哲巳だ。東京国立近代美術館での大規模な回顧展は、ウォーホルのそれの、あたかも裏バージョンのようだ。前者がポジ画像とすれば、後者はネガ画像である。この件は日を改めて論じることにしよう。

2014-04-17 13:16:09