水俣から未来へ伝える講演会 『水俣病患者家族に生まれて〜今、私が伝えたいこと』 講師:杉本肇(水俣市立水俣病資料館語り部) 平成26年5月5日 by 太陽のイビキ ‏@taiyonoibikiさん

まとめました。 ◆ 水俣から未来へつたえる『水俣病講演会』 ・日時:5月5日(祝・月)13:30~15:30 (受付13:00から) ・会場:環境と人間のふれあい館 続きを読む
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水俣から未来へ伝える講演会 『水俣病患者家族に生まれて〜今、私が伝えたいこと』 講師:杉本肇(水俣市立水俣病資料館語り部) 平成26年5月5日(月)13:30~15:30/新潟県立環境と人間のふれあい館から 感動の拾い書き

2014-05-05 22:01:35
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①ちりめんじゃこは、イワシ類(カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・シロウオ・イカナゴなど)の仔稚魚(シラス)を食塩水で煮た後、天日などで干した食品である。半干しのものをそ仔稚魚(シラス)のままシラスとよぶこともある。(ウィキペディア)

2014-05-05 22:01:59
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②カタクチイワシはふ化すると一日一ミリの早さで成長し、3センチくらいになったときが一番おいしいと言う。杉本肇さんの生まれた村は不知火海の風光明媚な漁村で、水俣全体でも最も患者の割合が多い村である。村のほとんどの家に水俣病患者がいる。

2014-05-05 22:02:23
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③杉本家は不知火海で代々、ちりめんじゃこ漁を営む漁師の網元であった。祖父祖母、父母、杉本肇さんは男ばかり五人兄弟の長男である。杉本肇さんの少年時代の思い出と言ったら、幸せな思い出しかない。昭和三十年ごろまでの漁はすべて人力で、櫓を操って海へ漕ぎ出していっては大きな網を人が引いた。

2014-05-05 22:02:59
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④ちりめんじゃこ漁の漁師にとってちりめんじゃこ以外の魚はすべて外道である。鯛でも鮪でも外道である。しばしばカタクチイワシの群れを追いかけて大きな太刀魚がかかる。そう言うときはみんなで分けた。手伝ってくれたものが十人家族だと 言えば、十匹の太刀魚を分けてやった。

2014-05-05 22:03:23
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⑤太刀魚は刺身でうまく、焼いてうまく煮魚にしてうまい。ちりめんじゃこはてでひと掴みして暖かいご飯にのせ、その上に醤油をかけて食べる。おいしい。毎日、一キロくらいは食べていたと思う。あるとき、祖母に症状が出た。ヨダレを流し、舌が縺れて口がきけない。

2014-05-05 22:03:42
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⑥病院の隔離病棟に運ばれ、水俣病と診断された。そこは特に重症の患者のいる所で、体の自由が利かず、奇声を発したり、苦痛から壁をかきむしって両手の爪がなくなっている者、ベッドから落ちないように括り点けられている者などがいた。

2014-05-05 22:04:12
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⑦すでに水俣湾のヘドロのこと、魚が死んでいることは漁師なかまでも知られていた。もちろん、死んだ魚は気持ちが悪いので誰も捕らないし、食べない。けれども元気のいい魚まで汚染されているとは思わなかった。祖母が水俣病であると診断された。村で最初の認定水俣病患者であった。

2014-05-05 22:04:31
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⑧すぐに伝染病の噂が広まった。「あの家の者と口をきいてはいけん」「家に入るな。家に入れるな」「症状で金をもらって、それで食っている」と言われた。祖母を病院から連れて帰るとき、タクシーから乗車拒否された。運命共同体のようだった村と疎遠になり、村八分となっていた。

2014-05-05 22:04:49
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⑨家から出るのが辛くなった。病気以上に、村中で差別されることが辛かった。しかし、水俣の症状は、差別した村人の間にもし だいに広がっていったのである。 肇さんは、小学二年生になるまでこの事をほとんど知らなかった。気丈な家族が子どもらの前では明るく振る舞っていたからである。

2014-05-05 22:05:10
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⑩祖母の具合が悪いのはそれが祖母の普段なのだくらいに思っていた。しかし、祖父が国とチッソ水俣相手の原告団の代表として立ったとき、状況は一変した。自分の家族が水俣病患者であるとはっきりと認識したのである。

2014-05-05 22:05:36
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⑪祖父を含めて村からは三人が立っていたが、そのうち二人が取り崩しにあって訴えを退けた。そのわずか二ヶ月後に祖父が死んだ。六月の暑い日だったが、海から戻って来ると「寒い。寒い」と訴えた。一度しまった布団をありったけ出して来てかけた。

2014-05-05 22:05:55
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⑫病院に運ばれていくときも、肇さんは祖父が戻ってくることを信じていた。祖父は気丈で優しく、一 家の文字通りの大黒柱であっった。肇さんを可愛がり、膝の上に乗せて、「おまえも網元になっておおきな舟にのろう」と言っていた。肇さんが一家のなかで最も睦く敬愛していたのが祖父だった。

2014-05-05 22:06:18
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⑬病院に運ばれて二週間後に祖父は死んだ。肇さんはそれから水俣病患者の家の者であること、知ることの苦しみにさいなまれることになる。父も母も、視野狭窄、めまい、麻痺、激しい頭痛など水俣病の症状を呈していた。いつ自分も水俣病を発症するのだろうか。そして祖父のように死んでしまうのだろうか

2014-05-05 22:06:42
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⑭母はどんなに痛くても自分が水俣病であることを認めなかった。家事をやり、全身にサロンパスを貼り、漁に出て行くこともあった。誰にも相談する者はいなかった。水俣はチッソの城下町である。同じ町 に加害者と被害者が同居していることのむずかしさを子どもながらに知るようになっていた。

2014-05-05 22:07:01
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⑮しかし、そのことでかえって家族のかけがえのなさを確認することができた。本当に頼れるのは家族だけだった。学校の前を通って村へ通ずる一本の道があった。その道をサイレンを鳴らして救急車が通るたびに、心臓が止まるかと思った。二度、校長先生から「おまえの母ちゃんが運ばれたぞ」と言われた。

2014-05-05 22:07:20
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⑯六年生になった六月、父と母がそろって入院した。三ヶ月間、兄弟五人で暮らす事になった。それぞれに家事を分担した。誰にも相談できない。両親が入院していることを先生にも友だちにもいえずに隠していた。はやく夏休にならないかとそればかり待っていた。一ヶ月もたつと家事にも慣れて来た。

2014-05-05 22:07:39
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⑰そして夏休 がやって来た。夏休は楽しかった。一度、兄弟五人で漁船を操って沖まで出て行った。免許などは持っていないのである。巡視の舟が来ると、帽子を被って二番目の弟の上に乗り、大人のフリをしてやり過ごした。東京からボランティアの学生が支援にやって来た。

2014-05-05 22:07:57
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⑱ありがたく、うれしかった。夜、家の中にだれか大人がいるのは頼もしいと思った。しかし、学生は役立たずだった。舟の係留もできない。危うく沖に流されるところだった。それどころか、草むしりもできない。学生は役に立たない。使えないと思った。けれども、大人と遊べるのはうれしかった。

2014-05-05 22:08:15
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⑲夏休は遊び放題だったので、誰も宿題をやっていなかった。絵日記も点けようがなかった。友だちに聴いてなんとか書いた。宿題をし始めた頃、学生 は東京に帰っていなかった。

2014-05-05 22:08:58
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⑳通知表の家庭欄は、母の字を真似て「兄弟仲良く、有意義な夏休を過ごしました。とくに肇は弟たちを助けてよくやっていました」とねつ造した。あるとき、薬箱のサロンパスが空っぽになっていることに気づいた。サロンバスは、母が痛み止めに体中に貼っていたものである。

2014-05-05 22:09:38
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21.兄弟を集めて聞いたら、二人の小さい弟が泣きはじめた。「わけば言え」と問いつめてもただ泣くばかりである。それで仕方がないと思ったから「もう、せんか」と訊くと、「もう、せん」と、泣きじゃくりながら言った。後で、中の弟がやって来て「さびしかと。しからんといき」と言う。

2014-05-05 22:10:59
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22.弟たちは夜になると、サロンパスを持ってその匂いを嗅ぎながら眠るのだという。「母ちゃんはサロンパスの匂いがし たけん」まだ、小学校にも入らない二人の幼い弟が、母ちゃんが恋しくて、サロンパスを嗅ぎながら母ちゃんを思い出して寝付いていたのかと思ったら、不憫で涙が出た。

2014-05-05 22:11:38
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23.実は、肇さんは母ちゃんは入院していてくれた方がありがたいと思っていたのである。母は家ではほとんど寝たきりの状態で、痛みに苦しんでいた。痛みが激しくて、自分でお尻を拭けないことがあると、肇さんが拭いてやらなければならなかった。

2014-05-05 22:12:16
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24すでに年頃になっていた肇さんには大きな苦痛であり、いっそ入院していてくれた方が気楽であった。けれども、三ヶ月経って、母親が退院して来たとき、幼い弟たちがうれしげに母親の枕元に集まってみな口々に「体拭かんね」「ご飯、食べんね」と言っているのを見て、

2014-05-05 22:13:06