愛は究極のエコヒイキである
ここから先はキリスト教の話。 そして、イエス・キリストが示した愛も、命がけのものだった。「愛」=「自分の命を与える」だった。キリスト教のシンボルが十字架であることは誰でも知っている。でも、なぜ十字架がシンボルになっているかを知る人は少ない。
2014-06-30 18:54:42ナザレのイエスは、自分が無罪なのに「身代わり」になって十字架に掛かった。それはジコチューなわたしのためだった。自分のことばかり考えて、勝手なことばかりしている人間のために身代わりになって十字架にかかった。
2014-06-30 18:56:33それは、人間の罪をイエスがひっかぶって、身代わりになって十字架で死ぬことで、その代わりに人間が生きるためだ。身代わりというのはそういうこと。本来なら神様から「おまえは死刑だ」と言われるようなことばっかりしている人間。わたしやあなたのことです。でも、
2014-06-30 18:57:41でも、神様と人間のあいだにイエスという男が入ってくれて、「この人が死刑になるかわりに私が十字架で死にます」と言った。そしてイエスが私の身代わりになった。これがキリスト教の核心にある構造です。
2014-06-30 18:58:57でも、いやいやいやいや、私はやばいやばい、このままもしも全知全能の神の前に立たなければならないとしたら、絶対に死刑まちがいなし!という人には、イエスの十字架は福音です。なぜなら、その人の罪はすでに、イエスが身代わりになってくれたから。これがキリスト教の核心です。
2014-06-30 19:01:16だから、もしも、自分のことを「まずい」「やばい」「絶対に私は救われない」「おれぐらい悪いやつはいない」と思っている人がいたら、きっと、キリスト教は(イエスの十字架は)あなたにとって救いとなるはず。
2014-06-30 19:02:26覚えてほしいことが一つ。「愛」という言葉はセックスのこと(だけ)ではない。「愛」というのは「命」の話なのだということ。誰かを本気で本気で愛するというのは、命を捧げるということ。
2014-06-30 19:04:33もしもそれを、愛と命の関係を「はっ」と悟ることができたなら、世界ががらりと違う姿になるはず。さまざまな言葉や、自分を取り巻くものごとの真実と虚偽が浮かび上がるはず。「愛」は「命」に深く関わっているのです。
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