〈私〉について私たちの語ったこと

哲学の徒necratalloさんと、それに絡むtmichiakiことぼく。そこで何が語られていたのか忘れてしまう前にまとめときました。
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@necratallo

マンガは哲学するでも指摘されていたけど、もし何故か現に私は今他の人になって(ただし無人称的でない端的な記憶はあるとする)、necratalloを発見したとき、あれは私だ、私だったものだ、と言いたくなるだろう。 ところで、何故現にこ他人になってるんだろう? 現に他人が私なんだろう?

2010-11-14 13:35:18
@necratallo

ここで、自己確信に反して、他人になった私は気が狂ったといわれるだろうか? それともそういうことは起こると受け入れられるだろうか? 僕は受け入れられる人間ではあるが、そうだと解る証拠は記憶しかない。 このように、他人である私がnecratalloであるか、他人であるかは決まらない。

2010-11-14 13:37:34
@necratallo

ところが、それであっても、何故か他人である私が、事実、私である、ということは間違えない、いや間違えるということがどういうことなのか解らない。 私が誰か(何者なのか)間違えるのは、記憶喪失などの想定できるだろう、だが、そもそもそいつが私であると解らないことはあり得るのか?

2010-11-14 13:39:18
みちアキ @tmichiaki

@necratallo 面白いですね。ぼくはなぜか他人になってしまいしかも以前の記憶もない場合、という仮定が好きですw

2010-11-14 13:44:21
@necratallo

@tmichiaki その仮定はですね、とても面白いですね。 想像以上に、その仮定は想像力が要るんですね。 その想像をするとき、どちらかというと、過去に自分がtmichiakiだったとしたら、という想定に近いんですね、、、未来向きの想像は、ちょっとムズかしい。

2010-11-14 13:48:11
@necratallo

なんか、今日は言葉が乱れている、日本語おかしい。

2010-11-14 13:49:55
みちアキ @tmichiaki

@necratallo 単に自分がその他人になって、気付かずそのまま日々を過ごしていく、ということになると思います。もしかして以前は自分は別人だったのでは、という可能性に思い至るのは哲学をやってる人だけでしょうねw

2010-11-14 13:58:59
@necratallo

@tmichiaki 意外に、哲学をやっている人でも思いつかないみたいですね。 発想の自由さ、という点では、あと5年くらいが限界でしょうね。 ご指摘はそうなると思うのですが、その想像は僕にとっては失敗するんですね、この失敗の意味も検討中です、、、

2010-11-14 14:08:06
みちアキ @tmichiaki

@necratallo 永井先生寄りの哲学をやってる人だけですかねw ちなみに、その「想像が失敗する」というのは、うまく想像することができない、という意味ですか? それとも、その仮定から出てくる結論には問題があるとかそういう意味ですか?

2010-11-14 14:16:39
@necratallo

@tmichiaki 永井先生の元だと確かに自由になりやすいですが、そういう思考実験を思い浮かぶかどうかは、ほとんど才能と運ですね。あと、過去において私がtmithicakiであったことと同値と言えるから、そうなるだろうと予期されますが、事実そうなることはできない、と思うのです。

2010-11-14 14:23:10
@necratallo

@tmichiaki 必ず、それを想像している私、というのが捨てられないんですね、完全に私を他人に重ね合わせることは失敗するわけです、このことの意味は、大したことが無いように見えて、とても重要なことに思われるのです。

2010-11-14 14:24:01
@necratallo

他者を想像するとき、私を重ねて想像したとする、その時、必ずその他者の中にも他者が存在する(夢の中にも他者が登場するのと類比的)。これは可能な他者ではある、が、その構造が無ければ他者の想定は不可能だ、ということは大きな意味を持つ気がする。

2010-11-14 14:30:21
@necratallo

かくして、この適用を現実にも当てはめたとき、私は他者として可能化される、その中での可能空間が開け、当然その中にも私と他者が居る、この構造はどこまでも崩せない。 だが、私は私を識別し、逆向きの操作で他者を予兆している、これは何が起こっているのか?

2010-11-14 14:32:30
@necratallo

当然、私は他者ではないし、他者は私ではない、そこに、この構造の無限の可能性が担保される、事実届いていない他者にどこまでも届こうと可能構造を展開することも可能ならば、私に固執することも可能だ。 そのどこまでも可能であるという終わりの無い終着点に、私は存在を垣間見る。

2010-11-14 14:34:01
みちアキ @tmichiaki

@necratallo それは、言葉が悪いですが"魂"のような、私の連続性を保つためのなにかがある、という感じですか?

2010-11-14 14:35:07
@necratallo

もしかしたら、最初にこのような構造を使うことで、現実と言うフィクションを捏造する、という約束をしたのかもしれない。

2010-11-14 14:36:53
@necratallo

@tmichiaki 違う、と思います。 私の連続性の話ではありません。 端的に、今この私が他者になる、ということは不可能なんです。事実なっている、と言う可能性は、過去から見て可能ですが、、、ですが、necratalloである私が鳩山になると今指定する方法がない。

2010-11-14 14:38:55
@necratallo

今、現に、私が他者になる、ということに意味を与える方法が存在しない、という話。

2010-11-14 14:39:38
みちアキ @tmichiaki

@necratallo ふむ。ではそれは(多分死ぬと消失すると思われる)"視点"のことですか? 私は私の視点から世界を見るほかなく、これが他者の視点になる、ということは意味として考えられない、みたいな。

2010-11-14 14:43:16
@necratallo

@tmichiaki 視点の意味、次第ですね。 近いところには居るかもしれません。 どういう意味で仰っているか詳しく伺ってもよろしいですか?

2010-11-14 14:44:16
みちアキ @tmichiaki

@necratallo いざ意味と言われると難しいですねw というか単にそのままで、そこから世界が開けている場所、ということです。"ぼく"の視点はいまtmichiakiの中にあり、そこから世界を視ています。ぼくの視点というか、ぼくが視点、ですかね。

2010-11-14 14:49:38
@necratallo

@tmichiaki うーん、じゃあ僕にとってキーポイントを言うと、僕はその意味で”誰に”開けているか、という点は気にしていないのです。 私に(現に)開けていたら、どんな想像も私のものであるしかない、という点を問題にしています。 二つの開けを同時に私とは呼べない、、、

2010-11-14 14:51:36
@necratallo

@tmichiaki その意味で、私が鳩山になる、とはどういうことなのか、ということを指定する方法が(同時には)存在しない、という気がしている、、、というのが問題のポイント、、、ですね。

2010-11-14 14:53:15
@necratallo

@tmichiaki と、よく読んでみると私とみちあきさんでは違う問題な気もしますねw

2010-11-14 14:54:38
みちアキ @tmichiaki

@necratallo 「私に(現に)開けていたら、どんな想像も私のものであるしかない」というのは意味がつかめますが、「私が鳩山になる、とはどういうことなのか、ということを指定する方法が(同時には)存在しない」の意味がよくわからないです。

2010-11-14 14:56:35
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