Die Stachelschweine

タイトルの意味は「ヤマアラシ」。 私の好きなキャラもこれです。 …しかし、それにしても難しい。 何を信念として、どのように行動するか。 続きを読む
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難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

昨日、マコシさん(@mktsio)と対談および対談イベントに参加いたしました。 とても気さくで楽しい方でした。

2014-07-31 08:10:07
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

いまだ思考が結晶化してませんが、昨日考えたことや対話から得たことなどをちらほらと。

2014-07-31 08:10:57
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

なんというのだろう、カンバセーションとコミュニケーションの境界はどこなのだろーな、という気持ち。返答を伴った応答による会話はカンバセーションと呼ばれるが、ネットのある時代では、返答無き応答、即ち純粋なコミュニケーションが台頭している。

2014-07-31 08:12:47
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

カンバセーションはコミュニケーションの部分概念だ。あらゆる対話方式、命題疎通の方法、文法疎通の方法がコミュニケーションと総称されるからには、カンバセーションはその一種と捉える事が出来る。

2014-07-31 08:13:50

Conversation
=対話。語を解体すると、
Con+Verse(<Versus
つまり「集まって」「対面する」。
面と向かって対話する、返答のある応答の事です。

いっぽう、Communicationとは、
Cum+Unio +Munitare
これと、Communis(共通の、公共の)が混ざって
「集まって」「ともに一致(=混ざり合い)」、「舗装し通行可能にする」…つまり、
『多くの人がともに混ざり合って通い合う』という意味があります。このためには、面と向かっている必要がなく、対話よりも幅の広い概念になっています。

返答なき応答も含めて、より多くの「通話」…というか、<会話>を考えるのであれば、Conversationは、Communicationの一種である、と考える事が出来ます。

難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

カンバセーションは贈与に贈与を与えあうと言う意味で、件デリダの「贈与」の脱構築の件と似た構造がある。つまり純粋な贈与が交換になっちまう的な奴があるわけだ 贈与のためにはその「お返し」があってはならないんだけど、返答ありの応答は相手にも贈与してるから交換になってる、というね。

2014-07-31 08:15:17
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

そして、一方で純粋な交換は、カンバセーションでは気づかれないんだよね。まるで「贈与し合ってる(実質交換なのだけどw)」という感覚に陥るから、そういう会話をこそ「対話」て言おうとするんだけど、実はその対話は、脱構築してみればコミュニケーションたる情報交換と限りなく等価だ、と。

2014-07-31 08:16:59

デリダの「贈与」論を要参照。
http://www.arsvi.com/b2000/0307tt.htm 
マリオンと言う人と議論をしてもいるそうな。
経済を考える時、『贈与』が成立するためには、"贈り手と受け手のあいだに相互性があってはならず、したがって、受け手からの返礼や反対給付、また受け手の側での負債の発生などがあってはならない"。

しかし、ここでちょっとしたことであっても―――たとえば、何らかの形で感謝の気持ちを伝えたり、反応を示したり…場合によっては、恩をあだで返す…的な事をやってしまえば、この地点で、相互性が生まれ、純粋な『贈与』ではなく、それは”「交換」であった、ということになってしまう”。

”贈与は贈与として現われるやいなや交換になり、投資と回収のエコノミーのうちに巻きこまれ、贈与としては廃棄されてしまうのである”。

会話においてもおなじで、情報交通の手段以上の、信頼ある会話、として面と向かって話す意識をしよう(或いは相手の言葉からそれ以上のものを受け取ろう)としても、…つまり、贈与を贈与として贈与し、授与を授与として受け取ろうとしても、すでにそれは情報のエコノミーに巻き込まれ、『交換』される、最終的には『情報』というテクストになってしまう。

それでも、会話が本当に信頼できるためには、「贈与」であることが、その誠意がひつようだ、という願いが僕にはあるらしいが、これはとうぜんながら、「不可能なものとして」やってくることになるのです。

難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

それを顕在化させるものとして、ネットは批評されてきたわけだ。 ネットではエア-リプライが回答の基礎になる。なんたって突然土足で他アカウントに踏み込むわけにもいかんし、2chなどに至ってはほぼその垢が無銘だったりするから。 かくして純粋な次元でのコミュニケーションが自然と起きる

2014-07-31 08:18:22

「純粋な」といういい方もまた問題ではあるが、贈与の脱構築として起きる結果が、期待に隠される物ではなく、その通りの形で再現される、という意味で、たしかに「純粋に交換の場」として登場しているとは言える。
デリダにとっては純粋や自然というのは到来を待ち続けるものだったが、まさに到来してしまった、ということ。

難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

要するに贈与なき交換、という感覚の対話が生まれるわけだ 別に誰にあげるつもりもなくつぶやいた言葉~ってやつが、誰かに「ん?これ使えるか?」って返答することなく使われる、これ自体がコミュニケーションだっていう言説あるじゃん。まあ要するにそういう事なんだなと。

2014-07-31 08:19:23

エア・リプライ
Air-reply。
直接リプライせず、間接的にその他人のツイートに情報を接続する形で、暗にリプライすること。
さきに挙げた『返答なき応答』の一例である。

難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

某批評のデータベース的志向性は、これを前提にしたもの、と見る線がある。というのはね、アレでよくこんなヘンな図がでてくるでしょ しんかいさんがこれはおかしいって言ってたあの図ですよあの図  pic.twitter.com/iC48es37rM

2014-07-31 08:20:50
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難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

これねえ、最初から主体という中心性は想定されてないわけよ 要するに誰でもないモノというより、最初から集合体であることがこの論の理解では要求されている まあ、日常感覚で言えば無理な感覚なわけよ、誰でもない者として対話してるなんて、案外そんな実感って当事者にないからさ。

2014-07-31 08:21:49
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

データベースって要するにそういう事でしょ 例えばあのデタベとか言うやつを、仏教で言う阿頼耶識に該当させてみると、あの図は面白い使い方が出来るんだけど…

2014-07-31 08:22:38
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

唯識思想の言う世界の構図: 阿頼耶識→(薫習)→現行識(=偽根源的主体)⇔境(対象) 東浩紀のデータベース論: データベース→「小さな物語たち」←読者

2014-07-31 08:23:59
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

唯識の構図では、阿頼耶識てやつがでてくるけど、これ要するに前世とか、フッサでいう過去地平だとか、他人と共有されてる根源的な共通認識みたいなものが種子として溜まってるデータバンクって感じのもの。ユングの集合的無意識に近いッちゃ近い概念なの。

2014-07-31 08:25:13

唯識学派、三識説
唯識思想、とは大乗仏教において、竜樹(ナーガルジュナ)が広めた「中観論」の考え方を、弥勒(マイトレーヤ)を発祥とし、無著(アサンガ)や世親(ヴァスバンドゥ)ら兄弟が体系化することで創り出した、仏教上の学問の一派。

唯識思想では、世界の存在がすべて、それ自身としては存在せず、空なるものであると言う事を引き継ぎつつ、その空の変化のなかで現れる様々な縁起と、その因果関係を理論的に組み立てていく。

このとき、ものを理解し把握する存在が変化のさなかに生まれる過程で、「三識説」が出てくる。

三識とは、
「六識(前五識+意識)」
「末那識」
「阿頼耶識」
の3つ。
六識とはその意識者の外界や自己を理解しようとする能力。つまり視界、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そしてそれらをとりまとめて世界の存在や抽象的概念を理解しようとする能力の、それらを識(し)ろうとするもの。唯識においては、これが「自我」という考えを生み出す原因としている(注意:厳密には意識主体ではありません)
末那識は上記の六識のさらに原因となるもの。前意識に近いもの。
阿頼耶識は、六識・末那識のさらに奥底で、六識をもつ彼よりも過去の、多くの人々や人生の記録や記憶等(種子と言う)…前世のようなものが溜めこまれた貯蔵庫のようなもの。即ち、過去の遺伝子のような記憶のデータバンクである。

唯識では、この阿頼耶識が、六識の今持っている意識=現行識に出てくる表象や思考等に影響を及ぼしては、またこの現行識から新たにデータバンクを作っている、と考えています(種子行薫習、現行薫種子)。

ちなみに、「境」とは、認識・把握される対象のこと。

難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

データバンクと言うイメージはデータベースと重なるよね 無意識に溜めこまれてきた情報、という点で、データベースという記号の前形態の集まったものと捉えることは十分可能なはずだ

2014-07-31 08:26:01
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

んでもって、この阿頼耶識に該当する「データベース」が、「小さな物語たち」に組み合わせでもって反映されてるってどういうことかといいますと。 あれ、要するに小さな物語たちって商品個々とか作品とかその中の各話にあたるもの。つまり読解の対象なのよ。先の唯識図だと『境』に該当する位置なの。

2014-07-31 08:27:14
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

人間が持ってる現行識(主体意識)が対象として認識する者が境だから、さしあたって今回の図式で当て嵌めるなら「読者」が対象化するもの=小さな物語たち、って応対でいいはずよね。

2014-07-31 08:28:09
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

そうしてさっきの図を見返すと、ちょうどデータベース消費の図は、唯識の構図と比べると、二つの事が解るのでぇす ひとつは、その図では対象を見る「人」とその「対象」の位置がそれぞれ入れ替わってる事 もひとつは、データベース消費のモデルでは、「読者」であって「主体」じゃない事

2014-07-31 08:29:41
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

そう、つまり対象認識をする人に主体が想定されてないって話になってるの んで、主体が存在しない、というのは「大きな物語が凋落~」打とか言ってるあたりにもあるように、其れゆえに、提供者も創作者も同列の者として扱われてるの ある意味完全な平等価値観…なのよ(※)

2014-07-31 08:30:34
難題の預言者、悉若無@いりやらさんどるあはれなり @L_O_Nihilum

(※)だから、時々この批評には態度自体まで含めて大層な批判がぶつかってた。というのは、これ書いた人は自分の著者名平気で書いてるわけで、自分と言う主体は論の向こう側でいつの間にか存在しちゃってるわけよ。なのに主体がないと書き込むとはどういうことじゃ?って言う批判があったわけね

2014-07-31 08:31:40

『消費』の概念について
消費というタームが出てきたのはボードリヤールやリオタールといった学者が出てきた頃
つまりモール等が登場して、大量生産された商品が自由かつ一律に、宣伝をともなってやってくるようになった時代に問題化された概念。

ボードリヤールにおける原義は、「観念的行為」であり、浪費と対置されていた。
つまり、浪費は対象となるものをモノとして身体に及ぶまで心行くまで使いこむ=受容することだが、消費のばあい、そうしたモノを消耗するのではなく、「消耗しているという観念」を受容する態度のこと。

具体的にいえば、ラーメンがあるとして、これを味わって一生懸命食べつくそうとする態度は浪費だが、一方有名ラーメン屋のラーメンだと言う事でだけで食べているのが消費に該当する。

もともとはそういう意味なのだが、この文脈においては、それを生産・流通する側も意識主体として扱われず、同様に「消費」プロセスと同様のことをしているかのように論じられている。そのため、作品に携わろうとするあらゆる行動が「消費」と広汎に定義され、何が消費であり、そうでないのか、理解しがたくなっている。
(早い話、コンテンツの世界とは「たんに」消費の世界である、という根がこの批評にはあるだろう)

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