槇さんのレクチャーは学生時代を含めても初めてかも。印象としては「パブリックスペース」という主題を追いつつも地域も時代も超えてどんどんハイパーリンクする連想型の展開。どちらかというとヨーロッパの建築家のレクチャーのスタイルだと感じた。
2014-10-21 01:37:04最初のほうはずっとアノニマスな都市空間を語っているが、このまま自作は出て来ないのかなと思うあたりで突然出てきて、その後はトピックを繋ぎながらさりげなく実績も折り込む。「NYではタワーよりも広場」と十分に強調しておいて4WTCを持って来るあたりなどとても慎重な運び。
2014-10-21 01:39:38ただそれは語りの流れで納得感があるものの論理的には飛躍もある。中島さんの質問のように正しすぎる質問をすると「アメリカ社会の問題」と話をややすり替えて話しておられたのが印象的だった。社会学者や批評家、あるいはエンジニアとも異なり社会の権力や市場と折り合う実務建築家の側面を見た。
2014-10-21 01:44:43つまり槇さんにとって「広場」はある種のレトリックなのだなと理解した。ザハ提案を批判する槇さんと4WTCでディベロッパーとしっかり仕事をする槇さんをつなぐのが「広場」なのだということがよくわかった。デザインしたいモチーフではなく、現実と折り合うための共通イメージとしての「広場」。
2014-10-21 01:47:30その意味で先日の倉方豊川鼎談でも議論になった丹下の姿とも重なる。戦後知識人としてマルクスを語りつつ共産党には入党せずアメリカ渡航を果たす「雪庇の上を歩く」ようなバランス感覚。
2014-10-21 01:49:32あるいは反オブジェクトを標榜し、場所を語りつつ精力的に仕事をこなす隈研吾さんの姿とも重なる。槇さんの「広場」は隈さん流にいうと「負けて勝つ」ためのレトリックでもある。
2014-10-21 01:53:11丹下やニーマイヤーのように権力に直接軸を引くタイプはうまくはまると国家プロジェクトに関わることところまでいくが権力が交代した際に国外へ追放されてしまう。他方で磯崎流に反権力を標榜すると文化的な仕掛けとしては成功するがメトロポリスで仕事はできない。
2014-10-21 01:57:06伊東さんのように「これがやりたかった」をひたすら押す、というやり方もあるがこれは結果的に磯崎型に近づくのかも知れない。
2014-10-21 02:00:33丹下・ニーマイヤーのような「権力」型、磯崎・伊東のような「反権力」型に対し、槇・隈は「広場」や「軒」など、権力の隣にあるものを語る「亜権力」型のアーキテクトとでも言うべきか。
2014-10-21 02:03:52権力のあり方を見極め、そこに飛び込んでいく「権力型」は消耗戦であるが、うまく残ったら社会の歴史そのものになる。「反権力型」は建築作品として自律させやすいが社会の歴史にはなりにくい。「亜権力型」は一見地味だが最も長く作家で居続けることができる——。
2014-10-21 02:12:53どれが正しいということではないが、それぞれの人の生き方そのもの。建築家は生き方が建築作品のあり方と一致している。ありとあらゆるテーマで「広場」を語る槇さんに、そんな建築家の姿を見た思い。
2014-10-21 02:16:39自分はいま、権力と化した市民、ネットによって過剰に意志が可視化される評判社会に飛び込んで消耗戦を挑もうとしているのかも知れない。それがよいのかどうか自問しつつ、突き進むしかないのだろうと覚悟を新たにさせられた。
2014-10-21 02:18:08内外の対比が強いことを知っていて「内外を曖昧に」と唱え続けるシニカルな槇さんも興味深いが、自分としては「東京はインテリア」と言い切るリアリスト磯崎さんに憧れる気がする。コールハースもリアリスト。
2014-10-21 02:23:32建築家は時代を見極める力が必要だが、見極め過ぎると作れなくなる。コールハースの飛躍がいい例。自分としてはシリアス過ぎてシニカルな、あの感じが好きかな。
2014-10-21 02:38:59