構造化のアイデアは人権思想とバッティングするのか?
- mamiyac330
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では何故、(日本では)二十歳を成人と見なすのか。これは再帰性の問題ともリンクしますが、「成人と『見做す』ことによって、謂わばピグマリオン効果として規律を内面化した理性的、倫理的主体として社会生活を営むことを通して事後的に成人となる」ということです。
2014-10-23 06:09:23故に、一端成人と「見做され」たら規律に反した非倫理的行為、例えば触法行為を犯せば、未だ規律を内面化し、理性的、倫理的主体として確立し得ていないと判断、処罰され再教育(更正)を施されることになります。
2014-10-23 06:14:26但し、です。理性的、倫理的に振る舞っているように見える人間が真から規律を内面化した人間である、と外形的に誰が証明し得るでしょう。例えば我々が赤信号では立ち止まり青になったら左右を確認して手を上げて渡るルールはそれをしなかった結果の可能性を内面化した後に実行したことでしょうか?
2014-10-23 06:20:44我々は交通ルールを習い覚える時、大抵はそれをしなかった結果の可能性を内面化する前に「型」としてそのことを学びます。「それが何故そうしなければならないのか分からないけれどもそうする」をもって交通規則のある公道へ歩み出すのです。
2014-10-23 06:24:43つまり、です。「それが何故そうしなければならないのか分からないけれどもそうする」ことをもってそれをしなかった結果の可能性を内面化している、と「見做す」。敷衍化すれば外形的に理性的、倫理的に振る舞っているように見えれば規律を内面化した主体と「見做す」のです。
2014-10-23 06:33:33この「見做し規定」は重要です。この規定を容認しないとすれば、我々は内心の自由すらない思想警察が跋扈する1984の様な世界を許容しなければなりません。つまり我々は「型」として理性的、倫理的に振る舞えていれば人権を附与されてしかるべき規定を内面化した主体として「見做し」ているのです。
2014-10-23 06:43:44さて、昨日の続き。外形上、理性的、倫理的に振る舞えていれば規律を内面化した主体、人権を附与されてしかるべき主体として「見做す」ということでした。つまりです。環境設定し外形的にでも理性的、倫理的主体と「見做し得る」状態を獲得できるようなアプローチも人権を前提にしているのです。
2014-10-24 06:02:42構造化のアイデアに違和感を持つ方々との差異は方法論に過ぎません。彼らは「見る-見られる」関係、視線の非対称性によって規律を内面化しようとします。非対称性とは一方的に罰することができる、という潜勢力によって担保されています。パノプティコンそのものですね。
2014-10-24 06:10:00対して構造化の考え方は「見る-見られる」関係における視線の非対称性を前提としません。何故か。非対称性に潜む罰の可能性、苦痛は多くの場合、ASDの方々にとって規律を内面化する源泉足り得ないからです。苦痛は苦痛のまま、ただ彼らを苦しめるだけだからです。
2014-10-24 06:16:30その様に考えるとパノプティコン型よりマクドナルド型の方がASDの方々にとっては特性に配慮した、より人権思想に叶う方法論だと言えるのです。勿論、但し書きが付きます。
2014-10-24 06:21:53それは自由意思です。構造化のアイデアを単なる管理手法として使用してはならない、ということです。ここを忘れると批判されてもやむを得ない。分かりやすい環境を提示することと同時にASDの方々が意思を伝えられる手段を(手段の方法論に囚われず)提示する必要があるのです。
2014-10-24 06:40:23実際の療育の現場は正に「人間にする」、ある種の修羅場です。しかし、目指す先を見失うと主観的には泥沼の戦場と化してしまいます。時々は思想的にブラッシュアップして頑張りませう。
2014-10-24 06:44:08