- korekorebox
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凌統の年齢が何故49歳とされたかの理由が分かった気がする。駱統の本当の没年齢46歳と混同されて、逆に駱統が凌統の二十九歳と字面で混同されて三十六歳と記述されたのかもしれない。
2014-11-18 21:22:56駱統が二十歳の時に、孫権が会稽太守となり烏程の相に任命された。孫権が会稽太守になったのは200~202年の事のはず。それで、228年没で36歳では計算が合わない。
2014-11-18 21:26:03孫権が車騎将軍になった時に二十歳なら多少は没年36歳に近くなるのだけれど、それから功曹・騎都尉と昇進して孫輔の娘を妻に迎えるとなると、赤壁後に失脚する孫輔の娘を与えられるというのもおかしな感じがします。
2014-11-18 21:33:07駱統が八歳のときに母が華歆の側室となるが、通常言われる193年生まれだと200年が八歳。その時、華歆は曹操の下にいます。おかしいですねぇ。
2014-11-18 21:47:32200~208年が孫権の会稽太守時代。予想としては194年が駱統8歳。と考えて、206年前後が駱統初出仕の二十歳だと思われる。
2014-11-18 22:33:38【駱統】193年に陳留に袁術が浸入。父親が陳国の相で袁術に殺される。196年には袁術が任命した袁嗣が陳国の相になっていて曹操に降伏する。
2014-11-18 22:47:45194年に馬日磾が袁術の元に来て華歆を招聘し予章太守に任命する。おそらくこの時に駱統の母親は華歆の側室となり駱統は会稽へと帰る。そう判断したので、駱統は194に八歳と考えた。
2014-11-18 22:51:04駱統が幼い頃に父親が袁術に殺され八歳のときに母親が華歆の側室となり、故郷の会稽に帰り継母に仕えたという。ちくま訳では、継母は父親の正妻だそうだ。
2014-11-24 08:02:57ここで気になるのは2点ほど。1点は、母親が華歆の側室となるまで駱統は何処にいたのか。2点目は、華歆の母は会稽から離れていたのに継母(父の正妻?)は最初から会稽に居たらしい事。
2014-11-24 08:08:22華歆は袁術が南陽を根拠とした時から付き従っていた。つまり陳国を袁術が支配地とした時に華歆は袁術指揮下に居たという事。駱統の母親は、夫の敵である袁術の部下と再婚した。
2014-11-24 08:22:35たしか当時の官吏は任地に家族を連れて行けないんだと思った。もしかすると駱統の母親は駱俊の正式な側室ではなく下女というか妾(現地妻)だったのかもしれない。
2014-11-24 08:27:07駱統が一般に言われている通りに193年の生年だと、生まれた年に父親が死んで8歳になる200年までの8年間をまるまる母親と父親の食客とで過ごしたことになる。収入のなくなった親子の為に8年間も食客が居てくれるだろうか?
2014-11-24 08:45:16しかも200年は華歆は孫権の下から曹操の下へと移動する年である。母が華歆の側室になってから会稽に帰るとあるので、地理的にも期間的にも色々と駱統が193年生年では無理があると思われる。
2014-11-24 08:53:00@korekorebox 言われてみると確かに矛盾してますね。ただ、全体に影響をあたえることはないと思いますが、駱俊が殺されたのは袁術が帝位についた197年ですね。
2014-11-24 21:16:17@Rieg__Goh ああ後漢書に書いてあるんですね。気がつきませんでした。ありがとうございます。駱俊が殺ろされて華歆と知り合うためには、その年の間じゃないと無理だと思うので197年が8歳と見て良さそうですね。もしそうだと・・・駱統の死んだ時の歳が39歳となり凌統が勘違い・・・
2014-11-24 21:30:03