【三国志】孫権が権力を掌握する過程について

孫策の跡を継いだ孫権が一人前の当主だったかのように思ってましたが、実はかなり苦労してたのだというお話。孫権にとっては一族の太守もライバルだったのです。時系列順に並べただけなので読みにくいですが。
45

括弧書きにご用心

所謂ちくま三国志では、読者が理解しやすいよう()内に補足を入れています。ところが、それが間違っている事が多々あるとも言われています。江東政権の実態を掴むのに()内が余計であるために、まとめでは筑摩トラップと呼んでいます。

陸合 @Rieg__Goh

孫権は曹操に地位を安堵されて会稽太守・討虜将軍をもらったけど、その後あまり間を空けず太守を名乗ってた幹部たちも将軍位をもらってる。江東では孫権を盟主として推戴すると決めたけど、朝廷から見れば彼らは同格で、孫権に「江東を取り仕切っていいよ」とお墨付きを与えたわけじゃないのか。

2014-05-03 18:16:39
ネットインコ @Golden_hamster

@Rieg__Goh 孫権的には安堵されたというよりは「会稽から出てくんな」というマイナスの意味にしか取れなかったんじゃないかなあ、もしかしたら

2014-05-03 18:24:15
陸合 @Rieg__Goh

@Golden_hamster そういうマイナスの意味としても、朝廷の認可のもと揚州の山越討伐を行ったり朝敵劉表を討ったりできたりしてメリットは十分ですね。

2014-05-03 18:29:17
陸合 @Rieg__Goh

朝廷が孫権を揚州の支配者と認めたわけではないけど、実質的には孫権は揚州の支配者。ただ、名目上は孫権も他の太守・雑号将軍の幹部と同格なので、曹操と孫権が敵対した後、揚州を揺さぶる目的で孫賁や孫輔などが将軍位をもらうと、面倒なことになったのだな。

2014-05-03 18:22:35
陸合 @Rieg__Goh

だから、曹操と敵対した後は劉備の推挙で行車騎将軍を名乗ったことが揚州での地位を固めるためにも重要だった。孫権も十分劉備を利用してるじゃないか。

2014-05-03 18:24:32
ネットインコ @Golden_hamster

@Rieg__Goh あのあたりの事って劉備側ばかり得したように思う人もいるっぽいけど、あれはちゃんと魏武アンド程昱になっていたと思う。

2014-05-03 18:26:46
陸合 @Rieg__Goh

@Golden_hamster そこは本当にそうですね。お互いにないものを補い合えた感じがあります。

2014-05-03 18:36:51
dara3 @daradara3594

@Rieg__Goh 雑号将軍と郡太守を兼務している呉景と孫権が関中の馬騰と韓遂に相当しますね。他は雑号将軍代行や中郎将だったり、郡太守を兼ねなかったりと差別化されてます。

2014-05-03 18:26:43
陸合 @Rieg__Goh

@daradara3594 なるほど、関西の人々に近いですか。調べたら、呉景は就任の時期を見ても軍団では別格なんですね。孫権は呉景と同格にする事で、孫策並みの地位を認めた感じでしょうか。朱治も呉郡大守・扶義将軍でした。徐琨は将軍だけでしょうか。200~202くらいの人事ですね。

2014-05-03 18:36:01
dara3 @daradara3594

@Rieg__Goh 江表伝に曹操が呉景を雑号将軍、孫策を騎都尉に任じて孫策の牽制を図るも、孫策の申し入れで二人とも雑号将軍になったとあり、曹操は呉景の官位を高く保つ事で孫策・孫権兄弟の抑え役を期待してたようですね。徐琨は孫策の意向で太守を外され、朱治と孫賁は将軍代行です。

2014-05-03 18:43:46
陸合 @Rieg__Goh

@daradara3594 朱治はちくまの「将軍の職務に当たらせ」をまたもやそのまま信じていましたw確かに原文は行がついていますね。なるほど、確かに少しずつ差があって孫権と呉景が馬騰と韓遂ということがわかりました。

2014-05-03 18:49:55
dara3 @daradara3594

@Rieg__Goh 筑摩は督中外諸軍事だとか、行〇〇事などの語句も無理に訳してしまってるので注意が要りますね。関中軍閥と非常に近しいですが、揚州軍閥には呉夫人という事実上のトップと、張紘という中央との太いパイプがあった点が馬騰らと異なってますね。

2014-05-03 18:52:10
dara3 @daradara3594

志林によると曹操は官渡以降に孫賁を長沙太守に、張津の配下を桂陽と零陵の太守に任じている。特に長沙太守は官渡前後に曹操と結んで劉表への叛乱を主導した張羨の後任と考えられるから、張羨の敗死後、曹操は孫賁を新たな劉表包囲網の中心に位置づけたのかも。

2014-05-03 18:57:20
陸合 @Rieg__Goh

@daradara3594 確かに事務取扱とかはよく見ますね。原文をそのまま役職として書いたほうがかえってわかりやすい気がします。呉夫人がトップというのがよくわからないのですが、どういうことでしょうか。孫権を助けただけでなく、君臨してたのでしょうか。

2014-05-03 18:58:17
ネットインコ @Golden_hamster

@daradara3594 それが孫権の曹操に対する不信を生んだ面もありそうね

2014-05-03 18:59:42
dara3 @daradara3594

そんで張津が叛乱で斃れると、曹操は孫賁の弟孫輔を後任の交州刺史に立てた。つまり曹操政権内で張羨の地位を孫賁が、張津の地位を孫輔が継承したと言える訳で、曹操は不遇を託っていた孫賁兄弟を劉表包囲網の中心に引き上げる事で、203年に死去した呉景に代わる孫権の抑え役を期待したのかも。

2014-05-03 19:31:20
dara3 @daradara3594

@Rieg__Goh 呉夫人伝では若い孫権を支えた程度に書かれてますが、張紘伝注の呉書によれば、呉夫人は重要な問題や密事、朝廷への上表文や諸郡県へ下す命令書、近隣勢力との外交文書などの一切を張昭と張紘の両名に作成させていたとあり、事実上の女当主と呼べる地位にあったようです。

2014-05-03 19:35:20
dara3 @daradara3594

張紘伝注引呉書「権初承統、春秋方富、太夫人以方外多難、深懐憂労、数有優令辞謝、付属以輔助之義。紘輒拝牋答謝、思惟補察。每有異事密計及章表書記、与四方交結、常令紘与張昭草創撰作。」文脈から言って「常令紘与張昭草創撰作」の「令」の使役者は呉夫人だと思う。

2014-05-03 19:37:30
dara3 @daradara3594

@Golden_hamster 孫賁は孫匡の早逝後は、曹氏との婚姻関係を持つ唯一重鎮でしたから、自分と挿げ替えるつもりなんじゃないかと孫権が危惧してもおかしくないですね。

2014-05-03 19:40:55
陸合 @Rieg__Goh

@daradara3594 張紘伝の注釈、原文と筑摩で確認しました。もしや、筑摩の「(孫権の方でも)事あるごとに張昭と張紘に文書を起草させて」の(孫権の方でも)はいつもの筑摩トラップで、呉夫人が主語ということでしょうか。

2014-05-03 19:42:31
dara3 @daradara3594

@Rieg__Goh 原文では「孫権の若さに不安を抱く呉夫人は張紘に輔佐を頼み、張紘もそれに応えた」という文に次いで、主語を省いて「重要案件がある毎に張紘に命じて張昭と共に文書を起草させた」と続けており、一貫して呉夫人が主語であると思います。

2014-05-03 19:48:35
dara3 @daradara3594

曹操の姪を娶った孫匡が早世し、張紘が許昌から引き揚げて以降は、娘を曹彰に嫁がせた孫賁が唯一の孫氏と曹氏の架け橋だった。そんな孫賁が曹操との同盟を破棄し、劉備と組んで叛乱起こした孫権を見限り、独自に曹操と接触したのも、経緯を考えれば当然の対応だったのかも。なんもかんも魯粛が悪いんや

2014-05-03 19:53:59
陸合 @Rieg__Goh

@daradara3594 確かに言われてみるとそうとしか読めませんね。当主が命令を出したに決まってるだろという先入観のために訳した人も()内を補ってしまったのですね。そうすると、建安十二年に夫人が死ぬまで命令は夫人から出たということになりますか。

2014-05-03 19:55:17
dara3 @daradara3594

従弟は魯なんちゃらとかいうマジチキ野郎に惑わされて謀叛を起こすわ、このままじゃ娘は処刑されるわという状況で思い悩む孫賁に、「たかが娘一人の為に背反しようと言うのか」と言い放つ朱治はぐう畜。孫賁にしてみりゃ背反してるのは孫権の方だろう。

2014-05-03 19:56:27