- misonikomioden
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色摺り図版ある白樺ファン・ゴッホ特集は衝撃を与えた。 その影響は高村光太郎は緑色の太陽というエッセイで表現主義的共感をした。 そして萬鉄五郎は「裸体美人」を描き、裸婦が睥睨している姿は、まじめに西洋絵画を学び描く人々を睥睨するようでもある
2014-12-17 20:10:26LESSONを企画したのがはがさん。 文化村GALLERYで行った中ザワ個展が回顧展的でそれは金切り声風景よりも前で、方法主義で終わっており、あたかも主情主義から主知主義への転換のようであった
2014-12-17 20:17:1920世紀美術の生→死→死後について。 西洋画人列伝と現代美術日本篇では説明の語が異なる。 死後をシュルレアリスムとしていたが、今は多様性の時代としている
2014-12-17 20:19:25戦後日本美術史と循環史観ということで、戦後日本美術の見取り図。 色彩派としてのフォービスム。 色彩派が表現主義、キュビズムが反芸術へつながる。(近代美術史テキストから)
2014-12-17 20:22:01それを西洋画人列伝では色彩と形態の振幅として語る 宗教・政治的要請から現世称揚精神=ルネサンス→絵画的洗練から自己目的化=マニエリスム
2014-12-17 20:24:36機関誌方法での中ザワ寄稿文 ビットマップの中ザワとベクターの村上隆との対立について。 色彩と形態、点描と線描、、、のような対立が普遍するのは古典的な対立だから。 二項対立はモダニズム発想でポストモダニズムから忌避されるがそれを承知の上でそれを糾弾する上でその自覚のもと行う。
2014-12-17 20:32:161~7の資料は、これまで中ザワがもともと持っていた文献を元にした資料。これからはLESSONのために用意した資料でスタッフのはがさんの尽力。
2014-12-17 20:35:192008年はセルの個展で多忙だった。 アーティストレジデンスで北京に滞在していた。そこでメールのやりとりしつつ資料用意したり。
2014-12-17 20:36:11[年表]1882年。フェノロサが講演で南画の「表現主義」を攻撃。日本画の「線描」を擁護、内国絵画共進会への洋画出品を拒否。 ここで、色彩(表現主義)=ビットマップを拒否し、線描=ドローを受容することが外人の助言によってなされるという。
2014-12-17 20:39:501914年 文展(官)から分離した二科会が成立。在野の洋画で、文展非出品なので明確に反官。またその反文展として日本美術院再興。在野の日本画で洋画部もあった
2014-12-17 20:43:53木村荘八 フュウザン会ではゴッホの真似のような絵から岸田劉生に泣かされつつ草土舎で描いておりその後挿絵画家として活躍。イラストレーターの源流として都築潤が注目
2014-12-17 20:48:25中ザワ 日経新聞の滅失絵画について 速水御舟。日本画だが岸田劉生と比較可能。 新南画動向=ヘタうま、と執拗な写実=うまうま=マニエリスム
2014-12-17 21:04:13速水御舟の洛外六題がヘタうま。審査員も激賞。しかしその後細密描写に転じたところその努力が悪努力と罵られる。 つまりマニエリスムへの非難と同様。細かすぎるんだよ、と
2014-12-17 21:06:55フュウザン会解散、新南画動向について ゴッホ描くことが見ること、ゴーギャンが描くことが見ること、と岸田は述べたが、フュウザン会はゴッホ派の岸田、ゴーギャンが斉藤与里、その二人の対立があり、調停者たる高村光太郎が岸田の肩をもったためあっけなく解散
2014-12-17 21:17:44新南画の動向。南画の保守化に対する近代化。 主に日本画家の動向を指すが、小杉未醒や森田恒友の洋画家も。 西洋絵画に匹敵するものとして南画の近代性(非写実性、内面の表出)が秘められてると説かれる。それは東洋のリーダーとしての帝国主義国家としての側面もある
2014-12-17 21:20:33フェノロサ・岡倉天心のやり方と同様、戦前その後も文化的覇者としてあろうと進出、先に近代化した国として各地に美術を根付かせた
2014-12-17 21:24:35初期の南画排斥は中国美術の排斥してまで日本美術を屹立を目指したが、そのフェノロサと岡倉天心に対するアンチとして南画の称揚がでる。
2014-12-17 21:26:02