- WasuiMatui2014
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ただ、『スノーホワイト』の“神”(=鏡)は、あくまでも道具としてのみ使われる。先にリーズナブルと言ったのはこういうことからだ。
2014-12-16 23:26:08だから、“神”(=鏡)はその使い方によって、効果に如実な差が発生する。『スノーホワイト』のなかで、ある人物が自分の鏡の使い方と、ある人物の鏡の使い方の差に愕然とする場面があるが、それは、『スノーホワイト』の世界観の中で“神”(=鏡)が全知であっても全能ではないことを意味している。
2014-12-17 00:02:23しかし、それでいながら“神”(=鏡)は間違いなく物語の中核に居座り、物語を動かしている。『スノーホワイト』には都合3人の探偵が登場するが、その扱いは従来の探偵とはかけ離れた扱いを受けている。なぜなら、探偵は“神”(=鏡)を使い倒すための装置であるからだ。
2014-12-17 00:09:01そういった意味で『スノーホワイト』は『さよなら神様』とよく似ている。あちらも全知全能たる“神様”が“真相”を告げ、それに到達するためにその“過程”という名の“アリバイ”を崩していく話だった。
2014-12-17 00:11:37しかし、『スノーホワイト』の作者が麻耶と決定的に違うのは、そういった問題意識をシニカルに呈示するのではなく、あくまでも寓話として処理しきってしまう点である。
2014-12-17 00:13:43後期クイーン問題や名探偵、本格推理小説の成立性を問い直す作品が溢れかえってきた新本格以降、この潔さは私の胸に快い風を吹かせた。
2014-12-17 00:15:57しかしその分、この作者を“女王国の住人”と断言することはいささか躊躇われる。いや、使用している“論理”にクイーンの匂いは感じるのだが、それはむしろ京都大学推理小説研究会の伝統たる犯人当てによって、伝言されたもののようにも思えるからだ。
2014-12-17 00:19:16【クイーンの呼び声】 さて、昨日は京大推理小説研究会出身作家による二つの作品を遡上にのせたが、今日は全く別のルートを通ってクイーンに肉薄しようとする二作について連投していこう。
2014-12-17 22:50:03『丸太町』『スノーホワイト』の“論理”を私は“骨”と表現した。ただし、両作の場合は、血や肉や表皮は全く違うものを持ってきて作品を構成している。
2014-12-17 22:50:37対して『水族館』『鳳翔』は前の二作と同様に“論理”という“骨”を使いながら、それを隠そうとしない。 いや、むしろその“骨”の太さを誇示する節、または、それが血や肉にまで侵食している節すら感じられるのだ。
2014-12-17 22:54:48例えば『水族館の殺人』は、“平成のエラリー・クイーン”と呼ばれる作者の手に成るだけあって、明らかに初期クイーンを彷彿とさせる論理展開が売りにしている。
2014-12-17 22:56:57しかし、異名一つを以てして作者をクイーンのものまねとするのは早計だ。ここには、作者特有の論理展開の手筋と現代本格推理の一つのモデルケースが示されている。
2014-12-17 22:57:37作者は現場に残された証拠品から執拗に、論理を紡ぎだす。この論理の偏執性は、昨日遡上にのせた京大推理小説研究会出身の二人の作品と比べれば一目瞭然だ。
2014-12-17 22:59:07『丸太町』『スノーホワイト』は、両作とも複数の陣営が互いに駆け引きを行い欺きあう“コンゲーム”の性質を持っているため、常に“場が動く”。そのようなシチュエーションでは、一つの証拠品を執拗に検討することは時間的に不可能だ。
2014-12-17 22:59:51であるから、一つの証拠品が場を劇的に展開/転回させるキーになりはしても、それが作中で完全に犯人を追い込むものにはなり得ていない。しかし『水族館』は違う。『水族館』では、日常の中にありふれた小道具が、証拠品となり、犯人を追い込む切り札となる。
2014-12-17 23:00:00“神が細部に宿”っている時、犯人は“神”足り得ない。犯人はただ“”神”が自らを指し示す瞬間を待つしかないのだ。勿論、そこに“後期クイーン問題”は存在し得ない。
2014-12-17 23:02:21