- WasuiMatui2014
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“初期クイーン”の(または《国名シリーズ》の)代名詞であった“読者への挑戦”が『水族館』にはない。なぜか、無論それは作品が必要としていないからだ。ただし、それは作品がフェアプレイを基にしていない、ということではない。
2014-12-17 23:11:01『水族館』において、論理は多段に構成されている。例えばAという推理を引き出すためには、前提となるB、Cという推理が必要となり、Bという推理を引き出すためにはD、Eという推理が…というようにである。
2014-12-17 23:13:51こうなると、読者はただ単純にAという推理が出来ただけでは、犯人を当てたことにならない。A~Eの推理を的確に抑えるだけでなく、その推理の順列・因果関係をも抑えなければならないのだ。
2014-12-17 23:16:55だから『水族館』は“フーダニット”でありながら、“犯人当て”ではない。“犯人が誰か”よりもその過程の多段的に構成された論理展開が主眼となっている。
2014-12-17 23:19:33それはちょうどダンジョンRPGに似ている。一つ一つのダンジョンを攻略していくように推理をクリアしていく。これこそが、私が“現代本格推理のモデルケース”という所以だ。
2014-12-17 23:22:09ただし、『鳳翔』の“読者への挑戦”は“初期クイーン”のそれとも全く意味合いが異なる。なぜなら、『鳳翔』では都合3度“挑戦”が挿入されるが、その段階で私は到底犯人が論理的に指名し得るとは思えなかったからだ。
2014-12-17 23:37:05では、それが欠点かというと、実は全くそうではない。なぜなら、『鳳翔』における“読者への挑戦”は、“データが揃ったことの宣言”ではなく“観客に対する口上”であるからだ。
2014-12-17 23:40:09つまり、これは演劇なのだ。観客に向かって“見得を切”っているのだ。観客はその心意気に喝采し、「古野屋!」とか「うげらぽん!」と大向こうを掛けなければならないのである。
2014-12-17 23:45:57そして、演劇であるからには、“神”であろうが人外であろうが、出てくるものに文句は言えない。それが、必然でありさえすれば、尚更であろう。
2014-12-17 23:47:55それは『鳳翔』の数々の危機的場面(多数あるが、どこでもよい)を読んでみればよくわかる。あれだけの情報量を、サスペンスを妨げることなく、かつ自らの文体リズムを崩すことなく書ききる点は凡手の成せる業ではない。
2014-12-17 23:54:29それだけに、他の3人よりもワクワクしないのも事実である。ある意味、スタイルが完成され過ぎている。作者の誇る頂、《天帝シリーズ》にしても、その“高さ”はすでに作者の構想によって予定されているもののように感じられるのだ。
2014-12-17 23:58:03なので、作者には“高さ”よりも“広さ”“深さ”“多様さ”を求めたい気がする。例えば、冒険小説。例えば、ノワール。例えば、ミステリから離れて純粋な音楽小説でもいい。無論、作者ならいつでもミステリに帰ってきてくれるという安心があるからだが。
2014-12-18 00:01:53以上、私が聴いた【クイーンの呼び声】について、つらつらと連ねて記した。無論、これはたかだか数作品に触れただけの印象論であり、中間報告に過ぎない。
2014-12-18 00:03:52