干支のはなし

清少納言先生(@seisyounagon_)による干支にまつわる解説(+おまけ)をまとめました。 装飾してたら二番煎じになってしまいました。
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 はじめに

清少納言 @seisyounagon_

特になんについてというわけではないのですが、サイコロを振って進む方角を決める時(女の子にはよくありますよね)、出た目を見てもどっちに行くのかわからない人が意外といるようだったので、図にしました。ご確認下さい。 pic.twitter.com/uS6bdmQ8Fr

2015-01-29 22:07:25
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清少納言 @seisyounagon_

真面目な話、古文・日本史を使う受験生の皆さんは十干十二支を覚えておくと便利ですよ。まず、当たり前ですが古文に出てくる時間と方角がわかります。艮(うしとら=丑寅)・巽(たつみ=辰巳)・坤(ひつじさる=未申)・乾(いぬい=戌亥)も一緒に覚えておくとベターです。

2015-01-29 22:45:01

干支について

十二支と時刻

清少納言 @seisyounagon_

一応言っておきますが、十二支で刻限を表す方法は、1日を24等分しているのではなく12等分しているのだということに注意して下さい。子の刻の真ん中を深夜0時に対応させると、午の刻がお昼の12時になります(だから『正午』なんですね)。

2015-01-29 22:48:06
6月屋 @6gatsuya

@seisyounagon_ 図示の方が良さそうなのでお送りします。加納信雄&U.G.サトー『きみはなにどし?』より pic.twitter.com/tEuyOWW2jg

2015-01-29 23:24:28
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十干とは

清少納言 @seisyounagon_

そして、十干です。十二支が十二宮(定子様は中宮で私の恋人です)のように黄道を十二等分したものであるのに対して、こちらはの五行を陽(兄[え])陰(弟[と]に分けたものです。2*5=10というわけですね。(姉と妹のほうが百合な感じがしていいと思います

2015-01-29 22:55:14
清少納言 @seisyounagon_

で、その十干ですが、 甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き) です。これを覚えておいて便利なことは何かというと、

2015-01-29 22:57:25
  • 十干は先述された五行と陰陽でそのまま
    甲(きのえ)乙(きのと)
    丙(ひのえ)丁(ひのと)
    戊(つちのえ)己(つちのと)
    庚(かのえ)辛(かのと)
    壬(みずのえ)癸(みずのと)
    とも読むこともあります。
清少納言 @seisyounagon_

ある種の事件に限って、日本史の年号が覚えやすくなります。

2015-01-29 22:58:17

干支と十二支は厳密には別物

清少納言 @seisyounagon_

どんな事件が覚えやすくなるのかを話す前に、もう少しだけ十干十二支の使われ方を見てみましょう。「干支」という言葉がありますね。今では十二支の動物という程度の意味合いで使われることがほとんどですが、本来はこの「十干」「十二支」の「干」と「支」を組み合わせたもののことです。

2015-01-29 23:02:18

干支の数は組み合わせではなく最小公倍数

清少納言 @seisyounagon_

この2つを、甲子、乙丑、丙寅……というふうにそれぞれの並び順を変えないまま組み合わせていくと、全部で60の組が出来上がります。(10*12=60では? とは思わないで下さい。十干も十二支も並び方は変えないので、全部の組み合わせを考える必要はないのです)

2015-01-29 23:04:51
清少納言 @seisyounagon_

(どうしても納得行かない人は、次の算数の問題を考えて見て下さい。 『羅生門から、2種類の牛車が、片方が10日おきに、もう片方が12日おきに出発するとします。最初に2台の牛車が一緒に出発してから、次にまた2台の牛車が一緒に出発するようになるまでには何日の間隔がありますか?』)

2015-01-29 23:07:59
清少納言 @seisyounagon_

(つまり、これは10と12の最小公倍数の問題です)

2015-01-29 23:08:28

干支と年号

干支が使われている歴史的事件など

清少納言 @seisyounagon_

話を戻します。このように、十干と十二支の組み合わせである干支は、60年でひとめぐり致します。つまり、「乙巳の変」「壬申の乱」「庚寅年籍」などなど、干支が名前に入っている事件の年代を仮に忘れてしまったとしても、

2015-01-29 23:11:55
  • 乙巳の変(645年)
リンク Wikipedia 大化の改新 大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。 この政治改革は、皇極天皇の皇居における蘇我入鹿暗殺により、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)から始まった。当初、難波高津宮以来、再び飛鳥から難波への形式上の遷都が行われたが
リンク Wikipedia 乙巳の変 乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。
  • 壬申の乱(672年)