ユキカゼ氏(NAVY_ICHIHO)による坊ノ岬沖海戦実況
「本島西海岸一帯は米艦艇のため海の色が見えない!!」 「何!? 海の色が!? それじゃわからん!!」 「船が七分に、海が三分! 船が七分に海が3分だ! わかったか!!」 #坊ノ岬沖海戦
2015-04-01 05:40:581945年4月1日06:50 中部太平洋作戦部隊TF-58艦載機群による目標地区(渡具知海岸一帯)への対地攻撃開始 #坊ノ岬沖海戦
2015-04-01 06:33:321945年4月1日08:00 米陸軍第7及び第96歩兵師団、米海兵隊第1・第6海兵師団行動開始。「指揮艦より上陸部隊へ、前進を開始せよ」 #坊ノ岬沖海戦
2015-04-01 08:03:381945年4月1日08:00 【発:陸軍第三十二軍】 敵ハ本島ニ上陸ヲ開始ス。嘉手納正面2~3個師団、湊川正面1個師団内外 #坊ノ岬沖海戦
2015-04-01 08:08:311945年4月1日08:04 【発:海軍沖縄根拠地隊 宛:天一号作戦部隊】 北飛行場上陸予想点ニ対スル艦砲射撃ハ熾烈ヲ極メツツアリ 尚朝来飛行場ヲ銃爆撃シアリ #坊ノ岬沖海戦
2015-04-01 08:13:30さて、沖縄戦は一日目にして北飛行場と中飛行場が制圧されるという事態になったわけですが、これは第三十二軍が立てた作戦計画の通りです。圧倒的な戦力を誇る米軍に対して飛行場を守りぬくなど到底不可能、水際撃滅なんて夢のまた夢という認識からでした。
2015-04-01 23:54:23そのため第三十二軍は持久作戦を取ることとし、4月1日はほとんどと言っていいほど攻撃を行いませんでした。そのためアメリカ軍は沖縄本島上陸を「まるで演習のようだ」と表し、第七師団の兵士は「自分が生きたいと思った以上に長生きしている」と言葉に残しています。
2015-04-02 00:01:32しかし、第三十二軍の作戦方針はすぐにつまずくことになります。上陸初日の飛行場破棄という行動に、第十方面軍、大本営陸軍部及び海軍部、連合艦隊は揃って不快感を示し、督戦の電文を次々と送ることになったのです。第三十二軍内部でも長参謀長が攻勢への切り替えを主張しこれが通る事になります。
2015-04-02 00:07:01また督戦の電文発信に最後まで不同意を貫いた大本営陸軍部第一部長の宮崎周一中将は、こうした中央の動きについて自らが戦ったガダルカナルの状況と重ね合わせながら「現地には責任ある軍司令官が所在する以上、干渉がましいことは大本営は慎むべきである」と書き残しています。
2015-04-02 00:11:47第八飛行師団の第十方面軍宛の電文(1755号)には「敵の兵力僅カに二個師団内外に過ぎず」とあり、また海軍を見れば特攻攻撃で敵艦船にかなりの被害が出ているという認識に立っていました。実際、4月3日の報告では戦艦と空母の撃沈を報告しています。問題はこれが間違っていたことなんですが。
2015-04-02 00:29:564月2日
1945年4月2日14:00 米第7師団第17連隊、東海岸の中城城跡を確保。沖縄本島の戦域が南北に分断される #坊ノ岬沖海戦
2015-04-02 14:03:331945年4月2日、三田尻沖にて待機する第二水雷戦隊で会議が開かれます。この席にて第二水雷戦隊幕僚は戦艦「大和」を含む第二艦隊にもはや使い道は無しと判断、翌日の司令官・艦長協議にて第二艦隊解体と艦艇の浮き砲台化を提案する事を決めます。 #坊ノ岬沖海戦
2015-04-02 18:21:29(イ)敵ハ北中飛行場ヲ占領ス (ロ)状況判断 (一)敵ガ沖縄本島ニ航空基地ヲ確保セル以後味方航空作戦ノ現状程度ノ低調ナルニ於テ航空作戦我ニ有利ニ展開スル算殆ドナシト認メ水上部隊ノ行動ニ関シ左ノ三案アリ #坊ノ岬沖海戦
2015-04-02 18:22:58(1)航空作戦地上作戦ノ或否如何ニ不拘突入戦ヲ強行水上部隊最後ノ海戦ヲ実施ス(此ノ場合目的地到達前ノ壊滅ハ殆ド必至) (2)好機到来迄極力日本海朝鮮南部方面ニ避退温存ス (3)陸揚可能兵器弾薬人員ヲ揚陸、陸上防衛兵力トシ残リヲ浮砲台トス #坊ノ岬沖海戦
2015-04-02 18:24:08