知性主義的なアートフォビア――遠藤水城の問題提起

キュレーターの遠藤水城が、パラソフィアの展示を見て、「アートフォビア」と「知性的なアートフォビア」についての危惧を表明。 後半、それについての議論。
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遠藤水城 @endo_mizuki

だからと言って前言を撤回するほどではないです。。。

2015-05-10 15:45:51
hanna saito @0oHANNAo0

知性主義的なアートフォビア、パラソフィアを見ていない者としてはなかなか掴みづらいな。このTweetでだいぶイメージがついたけど、まずいキュレーションということがわかるだけで、なにが「フォビア」なのかがよくわからない。 twitter.com/sakuraikeisuke…

2015-05-10 16:01:31
桜井圭介 @sakuraikeisuke

かなりクリアになりました。美術に視覚的快楽(演劇なら情動的快楽)があればOKという消費的態度はダメでしょ、という「正論」、かつ、アートの見方は自由だよね、という「建前」の合わせ技で己のコンプレックス=アートフォビアを温存したまま一気に優位に、といった感じ?@endo_mizuki

2015-05-08 02:31:57
hanna saito @0oHANNAo0

私も反知性、反教養の方がよほど問題だと思うけど、根は同じだという気も。要するに二項対立は必然的に反対項を含むというか。「大学の先生」って浅田彰のことなのか?だとしたら、「大学の先生」と一般化するのに適切な例ではないと思うけども...。

2015-05-10 23:43:16
hanna saito @0oHANNAo0

ちなみに「根は同じ」というのは、知性サイドからの「教育的な押し付け」は反抗としての反知性/反教養を招きうるし、反知性/反教養が業界に蔓延しているとすれば、知性サイドから見くびられる原因にもなる、という意味。 twitter.com/0ohannao0/stat…

2015-05-10 23:50:06
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke 一つ目の質問に関しては、とにかくスペクタクルを避けたかったんだと思いました。展示においては。見て楽しんで終わり、は駄目だと。考えてくれ、と。そういう姿勢が一貫しています。

2015-05-11 16:04:38
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke 視覚的・触覚的快楽が前面に来ているものは極端に少ない。蔡國強、やなぎみわ、石橋義正、ピピロッティ・リストくらいですかね。そしてそれらは明らかに展示の外部に置かれている(石橋義正は、内部にあって最低の効果を発揮しているがゆえに結果的に外部化している)

2015-05-11 16:16:57
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke スペクタクルなものは、切り離して外に置いておくから、それが好きな人はそこで楽しんでください、と。蔡國強の扱いにそれが顕著です。

2015-05-11 16:23:15
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke それで二つ目の偽悪性ですが、結論から言えばそれは、アーティストのレベルと鑑賞者のレベルを無媒介的に同じものとすることによって、アーティストと作品を貶めると同時に、鑑賞者のパフォーマティヴィティを奪う、ということになります。

2015-05-11 16:30:08
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke 尺の長い映像がありえないくらい多い理由はそこにあります。一貫した態度として僕はそれを否定も批判もしないです。むしろすごいなとすら思っています。

2015-05-11 16:32:31
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke パラソフィアは、映像を作品として鑑賞するのを前提としていません。むしろ、そこに座るかどうかという能動性の有無が問われている。6時間の映像が1階2階に二本あるのはそれを教えてくれるためのキュラトリアルな配慮です。

2015-05-11 16:40:37
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke 絵画的映像、彫刻的映像、映画的映像、詩的映像、音楽的映像、記録的映像、などのジャンル性を伴った映像を「作品」として鑑賞/享受することを禁止し(スペクタクル性を排し)、作者=カメラと同じポジションに立つことを鑑賞者に求めていく。

2015-05-11 16:48:41
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke つまりパラソフィアには「映像作品」が多いのではなく「映像」が多いのです。ジャンルと作品性を失った映像は、無媒介的に、作者の目と鑑賞者の目を繋ぎ得るのではないか、という賭け。肯定的に言えばそういうことになります。

2015-05-11 16:59:13
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke 偽悪性は以下のように現れます。「君がその映像の前に座ることができたのは、君がそこにスペクタクルを見出したからでしょう。作品だと思えたんですね。でも君は他の映像の前に座りませんでした。そりゃそうです。世界はスペクタクルじゃないんですから。

2015-05-11 17:05:26
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke アーティストたちはそれぞれのポジションで見て、考えたことを示しているだけです。実際、それは作品として大げさに示すほどのものでもない。君も同じポジションに立とうとさえすれば、同じように見て考えることができるんです。その程度のものです。

2015-05-11 17:07:58
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke しかし君はその程度すらしようとしない。別の視点に立つ。その視点から思考する。それはいつでも可能なんです。いますぐにやってみてください。それはそんなに難しいことじゃない。」

2015-05-11 17:13:41
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke アートフォビア的側面はアーティストおよび作品の神話性の解体に向けられ、知性主義的側面は鑑賞者の怠惰を無理やり引き出してそれを意識化させるという方法で示されています。他の要素でも説明できますが、とりあえず「映像」で説明してみました。

2015-05-11 17:22:52
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke 僕が批判したいのは、このキュレーションは「アーティスト」「作品」「鑑賞者」をコントロール可能なものと想定しているからです。かなり低いレベルに見積もっている。(だから実際につまらない、ひどい作品も含まれている)

2015-05-11 17:30:49
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke しかし本当は、僕の意見ですが、それぞれは荒ぶった状態にあって手のつけようがない。手を焼く。思考も焼かれてしまうかもしれない。これがキュレーターが最初に持つべき倫理ではないか、というのが僕からの提案です。

2015-05-11 17:32:55
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke 鑑賞者のパフォーマティヴィティについて。相変わらず飛躍しますが(すいません。。。)、鑑賞者にはすでに「作品」である可能性と、すでに「革命状態」である可能性が内在している。単に見るだけの存在ではあり得ないし、一方的に何かを教えられるわけでもない。

2015-05-11 17:42:50
遠藤水城 @endo_mizuki

@sakuraikeisuke ということで、なにが未来へ向かうのかはわかりかねますが、少なくともキュレーションが管理調整型権力のヴァリエーションを増やしているだけ、という事態は細部に至るまで検討され、反省されるべきなのではなかろうか、と。以上です。

2015-05-11 17:53:46
遠藤水城 @endo_mizuki

そもそも最初の展覧会って、平民が王侯貴族の館の扉を蹴破って、たくさんの絵を見て回ってしまった時、です。そこにキュレーターはいない。

2015-05-11 17:56:47
hanna saito @0oHANNAo0

知性主義的なアートフォビアの違和感がなんなのかわかったかも。知性主義的だということと、アカデミックであることが混同されている感。コンテンポラリーアートの教養主義は、ポスト構造主義〜ポストコロニアリズムの知識重視の態度で、アカデミックな教養主義とは別。論文と批評の違いというか。

2015-05-11 22:56:27
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