在校生代表、として祝辞を述べる予定だったのに、彼の姿がなくて会場はざわめく。真面目な彼がどうしたのかと。バレー部の3年生は、首を傾げて心配している。木兎さんはいつもよりやけに静かで…
2015-07-04 19:39:56木兎さんは過ごしてきた高校3年間のことを一つ一つ丁寧に綴るようにして話す。桜舞い散る春の日、目を輝かせてくぐった校門、ブカブカの制服、真新しい教科書の香り。
2015-07-04 19:45:12ソワソワと新しい教室の空気、それも次第に体に馴染むような心地いい温度になったこと。そしていつのまにかジリジリと暑い夏になり、むせかえる体育館の空気、エアーサロンパスの匂い、部室なんてたまったものじゃないと。
2015-07-04 19:48:19気付けばその場所に通って3年。先輩、と呼ばれるようになっていた。それでも毎日毎日新しい発見が待ち受けていた。先輩になっても特になにか変わった気はしなかったけど、少し変わったのは脱ぎ散らかした服を、眉間にしわを寄せながらたたんでくれる後輩ができたってこと。
2015-07-04 19:56:50「それが、赤葦京治くんです。彼と過ごした1年間はあっという間だったけれど、僕の今までの人生を塗り替えるくらい素晴らしい出会いでした。1年下だというのに彼の方がまるで主将のようで、恥ずかしながらいつも僕は支えてもらってばかりでした。
2015-07-04 20:01:42時にはにかんで笑いながら、堂々と穏やかに話す木兎さんはやはり、この人が主将だったんだ、と皆に思わせるような風格があって、バレー部の3年生も彼の言葉に目をつむって静かに耳を傾ける。
2015-07-04 20:05:13卒業式が終わって、3年生が外で写真やら先生とワイワイと盛り上がっている時、木兎さんは一人まっすぐ教室へ向かう。 教室の中に吹き込む風とやわらかいカーテンに包まれながら、見慣れた横顔を見つける。 その彼は長いまつげをふわりと揺らしてこちらを向く。 「あ、木兎さん終わったんですか。」
2015-07-04 20:11:53「うん、終わっちゃった。あっけないもんだな。」 赤葦君は少し俯いてその薄い唇を開く。 「…すいませんでした。」 「いいよ、かわりに適当なことしゃべったけど、やっぱ赤葦の言葉じゃないと締まらなかったな~悔しい。」 「…怒ってますか。」
2015-07-04 20:14:48「はぁ~終わった終わった!あ、そうだ!赤葦第2ボタンあげよっか!」 「…ブレザーも第2ボタン制度あるんですかね…てか誰かにもらわれなかったんですか。」 「も~赤葦つれない!大事にとっといたんだからなー!いらない?」 「いります。」
2015-07-04 21:28:12「はい!」ブチっと引きちぎっておもむろに握らされたボタンは、糸の切れ端が絡まったままでいかにも木兎さんらしい。学ランじゃないから金ボタンでもなんでもない。ただの黒いボタン。それでもこの世界にたった一つしかない、それが自分の手の中にある。
2015-07-04 21:41:11「赤葦は。」「はい。」「…なんかくれねーの。」 コロコロと手の中でボタンを遊ばせていたけど、予想外の言葉に顔を上げる。 「祝辞ももらってねーもん。なにか、記念になるもの。」 ピリリと冷たい風が吹き込んでカーテンがブワッと膨らむ。 木兎さんの月色の瞳がまっすぐにこちらを見つめる。
2015-07-04 21:42:50「え…」 「あかーしの命。くれんの。」 カーテンがパタパタとはためく。 てっきりドン引きされるかと思ったのに、木兎さんはどういうつもりなのだろう。
2015-07-04 22:11:22「…赤葦は、こういう時冗談言わないだろ。」 冷たい風を含んでまっすぐに刺さるような言葉。 やっぱりこの人にはかなわない。全部見透かされている。 「ほしい、頂戴。」
2015-07-04 22:18:38「赤葦の明日から全部、俺に頂戴。それで、」 俺のももらって? 遠くの方で卒業生の燥ぐ声が聞こえる、いつの間にか日はゆっくりと沈みかけていた。教室がオレンジに滲む。 「…もらい過ぎじゃないですか、俺…」 泣きそうになるのを必死に堪えながら、なんとか声を絞り出す。
2015-07-04 22:29:29「いんや、いままでいっぱいもらったから足りてないくらい。」 えーっと、おもむろに机に財布をひっくり返して彼は笑う。 「あちゃー全然入ってなかった。どこまでいけるかな?」 「ハァ…木兎さん、無駄遣いしすぎです。」気づかれないように涙を拭う。
2015-07-04 22:33:08「ちょ…赤葦も人のこと言えねーじゃん!」1000円札2枚と心ばかしの小銭が転がる。 「昨日来年度の部費、払ったばっかりなんですよ。」 「え、もう払ったの?」「ええ、新年度で買いそろえないといけないものいっぱいあるでしょう?でも、勿体無いことしましたね」
2015-07-04 22:39:22「ほんとだな!」と屈託なく笑う彼に俺は微笑んだ。 「そこの近くの海なら、電車で行けますよ。きっとこんな時期人もいない。」 「よし、決まりだな。」 木兎さんは俺の手をグッと掴んで歩き始めた。彼でもこんな時はやっぱり怖いのだろうか、指先が少し冷たい。
2015-07-04 22:46:11その手を強く握り返すと彼は恥ずかしそうに笑った。 ------------------------ その手を離すことがないまま、電車に揺られる。聞きなれない駅のホームを抜ければ、ふわりと微かなの花の香りを混ぜて海風の香りが吹き抜ける。
2015-07-04 22:54:02