三国志の英雄・曹操の行軍歌「苦寒行」を愛し、私こそが日本の英雄曹操だと信じた天武天皇について―日本史の中の「曹操」―
『文選』の配列に馴らされたせいで、両都→両京→三都の系列しかイメージしていなかったが、実はこの三篇の間に結構な量の作品があったのだなと。
2016-01-07 01:29:58賦(ふ)、かんたんに言うと歌のことです。
三都とは、魏の業β(ぎょう)(河北)、呉の建業(現在の南京市)、蜀の成都
@jiangjie2015 曹氏のみやこの業βに、温泉が湧いていたという歌は、三都賦でしたっけ。以前、探したことがあります
2016-01-07 01:32:40@jiangjie2015 d.hatena.ne.jp/mujin/20071022… ここのコメント欄に私が書いたレスがありました。魏都賦の「温泉ぼこぼこと涌き、自然に波立つ」でした。
2016-01-07 01:35:48@jiangjie2015 当時の風俗を知る材料になったらと思いまして。このことをある場所で話したときは、「中国?温泉?」って反応でしたが
2016-01-07 01:39:50@fushunia 首都を主題とする賦は豊かな帝国全体を描くので実態以上にハデになりますね。確かに中国の温泉はあまり有名ではないです
2016-01-07 01:41:07曹操墓の西に、私の憧れの太行山脈(たいこうさんみゃく)が
@jiangjie2015 太行山脈のギザギザの山の写真を見て、麓に湧いてそうだと思ったんですけど。日本史の人は太行山に興味がなくて、鈴鹿峠の故事に「太行」と出てくるのを講座でスルーされたのは悲しかったです。
2016-01-07 01:44:25@jiangjie2015 古文書を読んでくれた先生は、「たいぎょう」と読まれてました。渋いですね。『易経』に「高宗伐鬼方。三年克之」とある殷の中興の祖の高宗武丁王は、太行山を越えてやってくる草原の民「鬼方」の蹂躙にぐっと耐えて、反撃したみたいです。シルクロードの風を感じる山です
2016-01-07 01:55:40『蒙求』(もうぎゅう)(当時の児童用教科書)には、曹操が出てこない?
てか、曹操が出てこなかったということは、中国の故事は蒙求で学んでいた平安時代の人々からすると、「時苗?ああ、あの廉潔な人でしょ。曹操?誰それ?」的な状況であった可能性が高いわけだ。
2015-09-03 00:42:02『三国志演義』が江戸時代に流行するまで、中世の日本では、曹操はややマイナーな存在でした。
@darql そういえば、北野天神絵巻のどれかの版に、周瑜が音楽の天才として出てきたのを思い出しました。曹操はちょっと思い出せないですね。『万葉集』には、曹操のうた苦寒行を参考にした天武天皇御詠歌があり、英雄として見られていた可能性はあるかもしれないと思っています
2015-09-03 01:06:53歌の世界のなかの曹操、周瑜
@fushunia 平安時代は、詩歌や管弦などのに関連して曹操や周瑜については知られていたという三国志の受容の研究があったのを覚えています。なので、実際のところ曹操は平安時代の上流階級の人々には知られていたのでしょう。ただし、英雄や軍人・政治家としてではなく、詩人として。
2015-09-03 01:13:19@darql なるほど、そうかもしれないですね。九州探題の今川了俊の動きを調べていた方が、「今川了俊の研究」という本を見かけて手に取ったら、詩人としての今川了俊のことしか書かれていなくて、「しまった」と思ったと、おっしゃっていました。
2015-09-03 01:19:38@fushunia それによると、平安末から鎌倉・南北朝の乱世にかけて、武人としての三国武将が注目され、太平記が成立した頃になると、「謀略」が注目されるようになったそうですが、真実のほどがいかほどかは知りません。
2015-09-03 01:24:21曹操と「謀略」
@darql いま、平安時代後期の貴族の日記に、曹操の謀のことが出てきて、ツイートしたところでした。時代が下るほど、曹操への注目点が変わっていくということですね
2015-09-03 01:26:19日本の平安貴族の発想「曹操は、梨(なし)の木を切ったから滅亡した」
「三国史、魏志第一云、曹操謀之人也、伐梨木已以滅亡」(平安時代後期の関白内大臣藤原師通の日記『後二条師通記』より) これ、どういう意味なんでしょう?梨木? ?
2015-09-03 01:15:07