そんな異常な超大軍で攻めてきたわけですが、日本側もちゃんと準備して沿岸防御を固めていました。沿岸部に防御陣地を築くことで容易に上陸を許さず、水際迎撃にあたります。また遠征軍に疫病が蔓延したこともあってなかなか大規模上陸できずにいるところ、神風が吹いたといわれます。
2010-03-22 00:12:54第三次遠征軍も計画されましたが、ついに果たせず、鎌倉日本はなんとか元をしのぎきります。が新たな領土を得ない国土戦で戦力を消耗した結果、鎌倉幕府の体制はゆらぎ、やがて崩れていくことになります。ともあれ、空前の大軍を北九州で止めた鎌倉武士団の戦闘能力は大したものといっていいでしょう。
2010-03-22 00:15:21@marman_band それはそうなんですが、一旦、にしては第二次攻撃が七年後というのは長すぎると思うんですよ。まだ戦える余力があるなら、対馬まで引いて別の上陸適地を探す、みたいな話にならないですかね。まあその辺はたぶんとっくに研究されてるんだと思いますが・・
2010-03-22 00:17:34で、元寇からは当分平穏に過ぎて、今後は日本側が大陸に攻め入ります。秀吉の唐入りで、このときの兵力は元の第一次遠征軍をやや下回る16万人といわれます。返す返す、元がどんだけ凄かったのかというのがよくわかりますが、秀吉軍の規模も破格ではあります。
2010-03-22 00:19:36文化3年1806年にロシア軍が樺太(今のサハリン)に上陸しまして、日本の番人を殺し、商工業者を掠奪しています。その翌年にもロシア兵80人の襲撃があったのですが、このときは江戸幕府の手勢若干と戦闘になっています。
2010-03-22 00:23:32@dragoner_JP ああ、そうかそんなエピソードもありましたね。日本側のわりと名の知れた人の矢で負傷したのでしたっけ。ところでこの時代の橋頭堡構築は、なにをもって成功とみなせばいいんでしょうか?
2010-03-22 00:24:30ロシア軍と江戸幕府軍(というほどの規模ではないけど)の戦闘は、幕府側の弾薬が尽きたためにロシアの勝利に終わります。勝利したロシア軍は武器を奪い、施設を焼いて去っていきました。
2010-03-22 00:26:06その後もロシア軍は礼文島、利尻島を襲撃し、破壊と掠奪をおこなっています。こういうことがあったので、幕府も北方防御の必要性に目覚めます。そこでまずは地理を知るべしというので派遣されたのが間宮林蔵です。
2010-03-22 00:27:34林蔵の調査によって樺太が島であることが明らかになり(幕府は大陸と地続きだと思っていた)、この事実が幕府に伝えられます。そしてこの海峡発見は長崎に滞在していたオランダ人のシーボルト医師によって海外に紹介されます。ためにこの海峡は間宮海峡と呼ばれることとなります。
2010-03-22 00:29:06その後はロシアがヨーロッパでの軍事外交に忙殺されたので、しばらく日本北方は平和でした。が、それもつかの間のことで、嘉永年間に入るとロシア軍が樺太に上陸、こんどは占領までしてしまいます。
2010-03-22 00:30:16@zyesuta 私見ですが兵員の船外での休息地の確保かと。第二次侵攻時でも兵員が船から出られず、疫病が蔓延しています
2010-03-22 00:30:34@zyesuta ①間断なく戦力を投入できる状態にあること、②①を可能にするための施設・設備が構築されること、③防御を容易にするための緩衝距離が取れる地勢を奪取できていること、理想的にはこの3つかな。
2010-03-22 00:31:35その後、ロシアがウラジオストーク軍港を開きますと、ますます脅威はまし、今度は対馬に上陸します。このとき幕府はイギリスに相談して、英国軍艦を出してもらってロシアを退去させています。
2010-03-22 00:32:45このあたり、江戸幕府はほとんどロシアにされるがまま、撃退するにも英国を呼ばねばならぬ体たらくです。まともな海軍がなく、どころか陸軍も時代遅れ過ぎる幕府にはそれしかできなかったんですけれども、権威失墜は仕方のないことだったでしょう。
2010-03-22 00:34:16その後、馬関戦争と薩英戦争があって、長州は完敗し、薩摩はイギリスにそこそこ被害を与えるのですが、やはり苦杯をなめることになります。元寇のときのような水際防御すら満足にできないことが明らかになりました。
2010-03-22 00:37:19@marman_band @dragoner_JP なるほどなるほど。。。すれば、初日で奪取できた地積があまりにも不足しすぎ、かつまた陣地を構築できぬまま夜を迎えてしまった、ということですかね。
2010-03-22 00:39:52とまれ白村江から新羅・高麗らの襲撃、さらには元寇、ロシアの襲撃からそれ以降まで一貫してみますと、日本列島に対する上陸作戦が行われたことは意外と多く、かつその規模は数隻~数十隻、人数にして数十から千程度による「襲撃」が多いことがわかります。
2010-03-22 00:41:55白村江以降、明治以前の日本がろくな艦隊を建設してこなかったため、防衛戦争において海上優勢はほぼ常に敵側に握られていた、といっていいでしょう。また占領を目的としない襲撃ならば小規模船団でのOKですが、これだと上陸適地は多いし捕捉はしづらいし、という問題もあります。
2010-03-22 00:44:47ロシアに北方を脅かされた江戸時代、海防論の旗手となった林子平があらわした「海国兵談」には、日本の地勢とその防衛上の特性を見事に言い当てた説明があります。日本は島国だ、島国は敵に攻められ難いわけが一つあり、敵に攻められ易いわけも一つある。いずれも海だ、というのです。
2010-03-22 00:47:12